相田みつをの代表的な「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」と言う言葉には、
人生に失敗したって、また一から頑張ればいいんだよと、背中を押してくれる応援歌のようです。
相田みつをの言葉は、ひらがな中心の柔らかな書体で書かれていて、読むものを優しく包み込み、人間性を肯定するようです。
しかし、その人柄はまったく違い、作品に厳しく向き合った書家・詩人でした。
にんげんだもの。
「にんげんだもの」「おかげさん」など、その作品群の総発行部数は800万部を超えて、一大ブームを起こしました。
しかし、それは彼の死後のことだったのです。
遺言のような言葉を残して戦死した二人の兄。
そして18歳の時に巡り会った足利市高福寺の住職・武井哲應老師との出会いが相田みつをの原点になっています。
そして武井老師との師弟関係は40数年にわたり、相田みつをの生き方に決定的な影響を与えています。
なにげない言葉でありながら、深い真理を突く相田作品の数々。
相田みつをは老師から何を学び、それをどのようにして自分の言葉にしていったのでしょう。
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相田みつをの生い立ち。
相田みつを(本名:相田光男)は、1924年栃木県足利市の刺繍職人の父の元、6人兄弟の3番目に生まれました。
幼い頃から、書道の才能があった相田みつをは、20歳の時に書家になることを決意しました。
当時の書は今知られているようなものとは全く違うものでした。
それは伝統を重んじる正統派な作品で、全国コンクールで1位になる腕前でした。
しかし、相田みつをは上手な字は褒められても、人々の心には響かないと、今のような作風に変更したと言います。
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書に捧げた貧困生活の人生。
当時の日本は戦後の貧しい時代で、無名作家の書を買う者など、いるはずもなく生活は苦しいものでした。
生前は相田みつをの家族は、4人で8畳一間で生活を送っていたそうです。
その一方で、書への異常なこだわりがありました。
相田みつをは30畳のアトリエを借り、家賃が払えないのに、最高級の筆と硯を使用していました。
当時、大卒の初任給が15,000円の時代、一反3万円の最高級の和紙を、山のように使用していたそうです。
書に関するものは全て、つけ払いで、生活は貧乏のどん底、今日食べる米にも困るほどでした。
当時、生活の糧にしていたのは、個展でわずかに売れる書と、
和菓子屋さんの袋や包装紙のデザインを、自ら頼み込んで仕事を貰いました。
しかし、この稼ぎだけでは生活はままならず、妻の千江さんは、実家に頭を下げてお金を借りていました。
更に、貧乏生活に拍車をかけたのが、相田みつをが命じた妻の労働禁止令です。
少しでも収入があると、それに甘えて筆が甘くなるとして、妻は家計を助けることさえ出来なかったのです。
更に、相田みつをは、ようやく個展で売れた自分の書を焼却までしていたのです。
なんと、購入者の自宅に押し掛け、
「あの書を売るのはやはり恥ずかしい」と、せっかくの収入を返金して、買い戻してくる始末でした。
書を極めていくための相田みつをのこだわりに、家計は火の車で、
相田みつをの作風からは想像がつかない、破天荒な性格だったと言います。
しかし、相田みつをの言葉や「書」を見るにつけ、書を極めるためには、犠牲を厭わないとする、彼の偉大さに感動します。
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相田みつを 名言
相田みつをの名言の中でも、特に印象に残り、自分を見つめ直して呉れる名言を列挙しました。
つまづいたっていいじゃないか、 にんげんだもの。
しあわせはいつも じぶんのこころがきめる。
私がこの世に生れてきたのは 私でなければできない仕事が
何かひとつこの世にあるからなのだ。
なやみは つきねんだなあ 生きているんだもの。
他人のものさし 自分のものさし それぞれ寸法がちがうんだな。
あのときの あの苦しみも あのときの あの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための。
七転八倒 つまづいたり ころんだりするほうが 自然なんだな人間だもの。
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何をやっても思うようにならない時 上にのびられない時に 根は育つんだから。
毎日毎日の足跡が おのずから人生の答えを出す きれいな足跡には きれいな水がたまる。
美しいものを、
美しいと思える
あなたの心が美しい。
やれなかった
やらなかった
どっちかな。
とにかく具体的に
動いてごらん…。
具体的な答が出るから。
人生において
最も大切な時 それはいつでも
いまです。
外灯というのは
人のために つけるんだよな わたしはどれだけ
外灯を つけられるだろうか。
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