マクドナルド創業者レイ・クロック『成功はゴミ箱の中に』と名言。




マクドナルド創業者レイ・クロック『成功はゴミ箱の中に』

マクドナルドを世界的なハンバーガーチェーンに育て上げたレイ・クロック。

彼の著書、『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』は映画化もされ、ベストセラーになりました。

この自伝の中で、マクドナルド成功の秘密を明かしています。



レイ・クロックの生い立ち。


レイ・クロック(1902ー1984)は、イリノイ州シカゴ郊外の町オークパークで、チェコ系移民の家庭に生まれました。

アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、15歳の彼は高校を中退して年齢を偽り、赤十字に志願。

負傷者用救急車の運転手になってヨーロッパへ行こうとします。

しかし、研修終了間際に、第一次世界大戦が終わりを告げます。

その後は、ピアノ奏者や紙コップのセールスマン、マルチミキサーのセールスマンとして働いました。

彼が売っていたマルチミキサーとは、ミルクシェイクを、同時にいくつも作る事ができる最新式の機械でした。

1941年に5種類のミルクセーキを同時に作る「マルチミキサー」の独占販売者となり、

アメリカ中をセールスして回るようになります。

その中で1954年に「マクドナルド」を経営していたマクドナルド兄弟と出会い、

効率化された調理システムに惹かれ、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得します。

1955年4月にイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、

その後フランチャイズ展開を加速、世界最大のファーストフードチェーンにまで成長させたのです。

1955年にマクドナルドシステム会社を設立(1960年にマクドナルドコーポレーションに社名変更)しました。

成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 [ レー・A.クロック ]



『成功はゴミ箱の中に


『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』は、アメリカでマクドナルドを創ったレイ・クロックの自伝です。

マクドナルドの前身は、カリフォルニア州南部サンバナディーノで、スコットランド系米国人モーリス・マック・マクドナルドと、

リチャード・ディック・マクドナルドの兄弟がオープンしたファストフード店、マクドナルド・ハンバーガーでした。

クロックがこの店に興味を持ったのは、たまたま偶然でした。

それは、突然、8台ものマルチミキサーを発注してきたからです。

マクドナルド兄弟が経営していたハンバーガーショップを調べてみる事にしました。

すると結構繁盛しているらしい。

マクドナルド失敗の本質 賞味期限切れのビジネスモデル [ 小川孔輔 ]



マクドナルド兄弟の現地調査。


マクドナルド兄弟はどういう店をやっているのか。確かめるために、クロックはすぐさま現地に赴きました。

クロックは開店前には到着し、しばらく店の外観を観察します。

特に目立った特徴はないのに、開店と同時に、ひっきりなしに車がやって来て、お客さまの行列が出来ています。

クロックも列の最後尾に並びました。

それと同時に、行列の前にいる人にどうして人気なのかと尋ねると、

「15セントにしては最高のハンバーガーが食えるのさ。待たされてイライラすることもないし、チップをねだるウエートレスもいない」と答えたのです。

その後、ハンバーガーにかじりついているお客さまに、週に何回ぐらい来ているのか、何がいいのかと、聞いて周ります。

そうしながらも目は忙しくあたりを見回して見ると、暑い日なのに全然ハエが見当たらず、

駐車場にもゴミ一つ落ちてないなど、細かいところもチェックしたのです。

レイ・クロックは、この店の「限界まで簡略化、効率化する」という革新的なオペレーションにあっけに取られました。

そこではわずかなメニュー、つまりハンバーガーとフライドポテト、飲み物だけに注力し、

その分、高品質と素早いサービスを売りにしていました。

当時のハンバーガーは15セント、フライドポテトは10セントほどでした。

皿ではなく、使い捨ての紙でハンバーガーを包む手法は、高価な食器洗浄機を導入せずに、済ませるためだったのです。

お客さまがひける午後2時30分頃に改めて店を訪れ、マクドナルド兄弟に自己紹介をしました。

そしてマクドナルド兄弟をディナーに誘い、経営方法を聞き出します。

その経営は実にシンプルで、効果的な商売だと感動します。

マクドナルド兄弟は、テニスコートにチョークで店の図面を描き、従業員が効率的に動けるように指導していました。

パテを焼くだけの担当、バンズに挟んでラッピングするだけの担当と分業化を実現し、

注文からわずか30秒で、ハンバーガーを出すことに成功していたのです。

クロックはその日は、モーテルに泊まるのですが、

翌朝起きた時には、もうマクドナルドを大きく展開する、具体的なプランが出来上がっていました。

たまたまマクドナルド兄弟の店に行ったのは、あくまでもマルチミキサーの営業のためでした。

店の評判を聞いて、マルチミキサーの商売相手として良いのではないかと見込んで、とりあえず見に行ったのでした。

そのクロックの商売勘は鋭かったのです。

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フライドポテトに注目。


マクドナルド兄弟の店での観察で、クロックはフライドポテトに注目します。

フライドポテトはハンバーガーの付け合わせと考えられていましたが、

マクドナルドの評判の重要なポイントはフライドポテトにあると、クロックは見抜いていました。

そこでマクドナルド兄弟に、「あなたがたはポテトにこだわっていますね」と水を向けたのです。

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競争相手のゴミ箱の中を調査


マクドナルド兄弟にしてみれば、クロックのこの言葉は、我が意を得たりという言葉でした。

実際、マクドナルド兄弟は、フライドポテトにはあふれんばかりの情熱をそそぎ、

アイダホ産の最高級ポテトを使って、専用の油で揚げていました。

クロックはそういう商売全体のキモの部分に、直観的に目が行くような人物でした。

それはレイ・クロックが52歳の時の事でした。

この著書は全編を通じて、こうしたエピソードには枚挙にいとまがありませんが、

もう1カ所だけ挙げておきたいところがあります。それは本のタイトルにもなっている箇所です。


「競争相手のすべてを知りたければゴミ箱の中を調べればいい。知りたいものは全部転がっている」


これは「競争相手にスパイを送り込んで儲かるアイデアを盗めば?」というアイデアに対し、

そんな必要はないと烈火のごとく怒って吐いた言葉です。

実際クロックは、

「深夜2時に競争相手のゴミ箱をあさって、前日に肉を何箱、パンをどれだけ消費したのか調べたことは、一度や二度でない」

と告白していたのです。


マクドナルド兄弟との離反。


この当時、マクドナルド兄弟はちょうど、この店の新たな代理業者を探していました。

レイ・クロックはそれを大きなチャンスだと捉えました。

1955年、フランチャイズ権を獲得し、マクドナルド株式会社の前身となる「マクドナルド・システム」を設立。

イリノイ州に店をオープンすると、またたく間に全米展開に成功。わずか3年で、総計1億個のハンバーガーを売り上げました。

しかしその直後から、レイ・クロックとマクドナルド兄弟との関係は、日に日に悪くなるばかりでした。

本来の契約では、クロックが総販売額の1.9%を、マクドナルド兄弟は0.5%を受け取るというものでしたが、

実際の分配はそうなっていなかったのです。

1961年、マクドナルド兄弟が270万ドルのロイヤリティを要求すると、クロックは激高します。

彼は、「マクドナルド兄弟が自分を失敗させようしている」と感じたのです。

そのあたりの事は、自伝『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』の中で語られています。

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レイ・クロックの名言。




幸運は、汗への配当である。汗をかけばかくほど、幸運を手にすることができる。


この世界で、継続ほど価値のあるものは、ありません。


私は一夜にして成功を収めたと思われているが、その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった。


努力もせずに手に入るものではないが、諦めずに頑張り通せば、夢は必ず叶う。


思考のスケールが小さいと、その人自身も小さいままで終わってしまう。


勇気を持って、誰よりも先に、人と違ったことをしなさい。


何事も小さな仕事に分けてしまえば、簡単になる。




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