オードリーヘップバーン。
オードリーヘップバーンと言えば、あの愛らしくキュートな笑顔と、スタイリッシュな容貌が、
多くの女性の憧れの的となり、世界中の男性の、世界の恋人となった人です。
ベルギー出身のイギリス人で、アメリカで活躍した女優です。
アカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞をすべて受賞し、AFIの「最も偉大な女優50選」の第3位になったこともありました。
その魅力は、時代を超えて愛されていて、今でも映像の中で、キュートな佇まいを見せて呉れています。
10代のヘップバーンは、バレリーナ。
ヘップバーンの生い立ち。
独特の雰囲気を持った、ヘップバーンの生い立ちに、触れて見ます。
ヘップバーンは、1929年ベルギーの首都ブリュッセルで生まれました。
父親の家系がイギリスの市民権を持っていて、母親の実家はオランダでした。
父親の仕事がイギリスとの関係が深く、一家はこの3ヵ国を頻繁に行き来していました。
しかし、父親が子供の子守りとの浮気を行い、家庭を捨てて出て行ったのでした。
1935年に母親は、子供たちとオランダのアーネムに戻ります。
その後、1937年母親とヘップバーンは、イギリスのケントに移住をします。
しかし、第二次世界大戦直前の、1939年にオランダのアーネムに戻るのでした。
これは、オランダが、第一次世界大戦時に、中立国の立場を取っていた事から、
第二次世界大戦でも、安全な場所に避難したからでした。
ヘップバーンは、1939年にオランダのアーネム音楽院へ通い、バレエも学んでいました。
第二次世界大戦後。
1945年に第二次世界大戦が終結すると、アムステルダムに移住し、アムステルダムでバレエを学び、
オランダでも有数のバレリーナとなったのでした。
1948年に初めての映像作品に出演した後、1951年にブロードウェイ舞台作品『ジジ』の主役を射止めます。
オードリー・ヘップバーン愛される人になるための77の言葉 AUDREY’S WORDS (美人時間ブック)[本/雑誌] / 〔STUDIOPAPERPLANET/編著〕 |
ヘップバーンの『ローマの休日』。
『ローマの休日』
そして、1953年『ローマの休日』で、アカデミー賞主演女優賞を獲得したのです。
『ローマの休日』は1953年公開された、アメリカ、パナマウント映画が制作した白黒映画です。
既に公開されてから66年経っていますが、いまだに世界中に影響力を与えている映画です。
この映画は、第二次世界大戦後のイタリア経済の復興と、アメリカ人観光客誘致のために、創られたと言われています。
話の筋は、ヘップバーン扮する、アン王女が欧州親善旅行で、
最後の訪れたローマを舞台に、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリーペック)との、淡い恋心を描いた作品です。
王女が旅先でしか出来ない冒険や恋心を、24時間と言う時間の中で、上手に表現しています。
スペイン広場でジェラートを。
ローマは世界遺産。
至るところにローマの街並みが出て来て、旅心を誘うように演出されています。
それでなくても、ローマには世界遺産が溢れています。
スペイン広場に腰掛けてジェラートを食べるシーン、トレヴィの泉、そして有名な、真実の口のシーンです。
映画の中ではトレヴィの泉に、子供たちが入って遊んでいて、のどかな時代だったと感じさせられます。
現在ではスペイン広場で、ジェラートを食べる事は禁止されているようです。
また、真実の口は、紀元前のマンホールらしいですよ。
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ちなみに、トレヴィの泉では、投げるコインの数で、叶えられる事が違うようです。
1枚だと、再びローマに戻って来られる。2枚だと、大切な人と一生一緒にいられる。
3枚だと、パートナーと別れたい時に投げ入れるようです。
映画のラストシーンは、アン王女がローマを旅立つに際し、
「ローマは永遠に忘れられない街になるでしょう」と話し、記者たちに、お礼の挨拶をするシーンで終わります。
この映画でヘップバーンは世界の恋人となり、ヘップバーンカットは世界中でヒットしました。
オードリー・ヘプバーン 彼女の素顔がここに / 原タイトル:Audrey Hepburn[本/雑誌] / マーティン・ギトリン/著 中尾ハジメ/訳
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ローマにヘップバーンの面影。
ローマは世界第3位の観光都市。
では、ローマはどうなったかと言うと、世界中の旅行会社がローマへの観光誘致行い、
スペイン広場、トレヴィの泉では人が溢れていますし、真実の口では、いつでも長蛇の列が絶えないようです。
世界中から、多くの観光客が押し寄せるローマは、
映画公開から半世紀以上経った今でも、ヘップバーンの面影を残し、大きな経済効果を生み出しています。
その後、1954年に『麗しのサブリナ』、1961年に『ティファニーで朝食を』、
1964年に『マイフェアレディ』など、記憶に残る作品に出演しました。
オードリーヘップバーンの名言。
ヘップバーンの言葉。
そんなヘップバーンがこんな名言を残しています。
「チャンスなんて、そうたびたび巡って来るものでないわ。だから、いざ巡って来たら、とにかく自分のものにすることよ。」
ヘップバーンの生い立ちを見ると、第二次世界大戦後にアムステルダムで有数のバレリーナになった16歳、
それから3年後の19歳の時に、初めて映像作品に出演され、その5年後24歳で『ローマの休日』でアカデミー賞を、受賞するのです。
ヘップバーンは、青春の数年間で大きく成長し、アカデミー賞を受賞する女優となり、ローマを、世界有数の観光都市にしたのでした。
そんな、ヘップバーンだから、「チャンスは前髪で掴め」と言っているのでしょう。
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国際連合児童基金の仕事に捧げる。
ユニセフ親善大使。
ヘップバーンは、女優業を年と共に減らして行きます。
後半生のほとんどを、国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事に捧げています。
1989年に、ユニセフ親善大使として就任すると、
彼女は「物事にはふさわしい時期がある」として、支援を必要としている子供の支援に奮闘します。
そして、亡くなるまでの4年間で、当時最悪の食料危機に陥っていた、エチオピア、ソマリアを始め、
トルコ、ベネズエラ、エクアドル、ホンジュラス、スーダン、バングラデシュなどの、戦争や貧困の、深刻な地域を尋ねたのでした。
オードリーヘップバーンかく語り。
ヘップバーンの言葉。
そして、ヘップバーンは、こんな言葉を残しています。
「何としても避けたかったのは、人生を振り返った時、映画しかないという事態です。」
「子供より大切な存在なんてあるかしら?」
ヘップバーンは、第二次世界大戦直後に、「食べ物や医療の援助を受けていた、子供の一人だったから」と言っていますが、
戦争に翻弄された人生の中で、子供の頃に経験した辛い経験が、ユニセフ親善大使への道に、繋がっているように見えるのです。
女優オードリー・ヘップバーン (こんな生き方がしたい) [ 古屋美登里 ]
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「オードリーヘップバーンの名言に、凛とした生き方があった。」への5件のフィードバック
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