ナイチンゲールとクリミア戦争。今も昔も戦火の地の理由。
ナイチンゲールはどのように、クリミア戦争に関わったのでしょう。
ナイチンゲールの運命を変えたのは、
1853年。オスマン帝国トルコと、ロシアの間に起きたクリミア戦争でした。
南下を目指すロシアに対し、脅威を感じる英仏は、オスマン帝国を支援しました。
そして、黒海に突き出したクリミア半島では、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘で傷ついた兵士たちは、イギリス軍の基地があったイスタンブールの、アジア側スクタリ(現ウスキュダル)の、陸軍野戦病院に運ばれ治療を受けます。
そんな中、ナイチンゲールは1854年に、
英国人の24人のシスターと、10人の志願看護婦と共にイスタンブールに赴き、兵士の看護に当たったのです。
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クリミア戦争とは
クリミア戦争とは、中近東及びバルカン半島の支配権をめぐって、1853年~56年にかけて、
ロシアと、トルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍との間で起きた戦争です。
フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍、及びサルデーニャと、ロシアとが戦いが始まりました。
クリミア半島と黒海が主戦場であった為に、こう呼ばれていますが、
戦火はドナウ川流域、バルト海、カフカス地方、更に極東のカムチャツカ半島にまで及びました。
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クリミア戦争勃発の背景
オスマン・トルコ帝国の衰退によって生じた、東方問題の解決を巡る、ヨーロッパ諸強国の外交政策の衝突でした。
ロシアはオスマン・トルコの圧政下にある、スラブ系諸民族を解放するという名目で、数次に渡る対トルコ戦争に勝利を収め、
1828年~29年のロシア対トルコ戦争で、
ダーダネルス、ボスポラス両海峡の自由通行権、全トルコ領、黒海における通商権を獲得して、黒海に勢力を伸ばしました。
トルコを犠牲とした南帝政ロシアの下政策は、中近東とバルカン半島に影響力を確保しようとしていた列強の反発を招き、
イギリスやフランスは、クリミア遠征したロシアと対抗上、トルコを支援するようになったのです。
聖地エルサレムの管理権をトルコに要求して南下を図ったロシアに対し、
阻止しようとするイギリスなどがクリム(クリミア)半島に出兵して参戦し、結果的にロシアが敗北しました。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは、抜本的な内政改革を余儀なくされ、
外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも、急速に国際的地位を失う一方、
国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンが、
欧州社会に影響力を持つようになりました。
また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至ったのです。
この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその、影響は中国や日本にまで波及しました。
そして今また、ウクライナとロシアが、クリミア半島の領土権争いから、ウクライナ戦争に発展し、
ロシアの覇権主義は、欧米各国からの非難の的になっています。
要衝の地の歴史は繰り返されています。
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