『鉄腕アトム』の手塚治虫。
手塚治虫は言わずと知れた、漫画界の頂点に立つ人です。
戦後の日本を元気にした、一人に輝くのは間違いなく、生前から「マンガの神様」と呼ばれていました。
お茶の水博士が作った『鉄腕アトム』。
『鉄腕アトム』は、お茶の水博士が作り出した、科学の子なんです。
勧善懲悪の心をを持ち、正義のために戦うアトムの姿に、勇気を貰った、子供たちも多かった筈です。
手塚治虫の凄さは、その構想力ではないでしょうか。
人類の壮大なテーマを描いた『火の鳥』は、原始から現代までの壮大なヒストリーです。
『ブラックジャック』は、人の命を守ることの大切さを訴えながら、神の手を持つ医師の生きざまを描いていて、
「わたし、失敗しないので」の、米倉涼子さんの『ドクターX』に、繋がっているように思えます。
日本は今では、世界一のアニメ大国となっていますが、その国産アニメシリーズの第一号は『鉄腕アトム』だったのです。
そして、この作品以降、日本のテレビアニメは、30分が常識化したのでした。
手塚治虫の生い立ち。
手塚治虫は、1928年兵庫県豊中市に生まれました。明治節に生まれたことから、明治にちなんで「治」と、名づけられたようです。
父は現在の、住友金属工業に勤め、前衛的な写真家でもありました。
更に、祖父は日本の司法官で、家庭はかなり裕福な生活をしていたようです。
5歳の時に、祖父がそれまで住んでいた、兵庫県宝塚市の邸宅に、一家で移り住みます。
父は宝塚ホテルの中で作られた、宝塚倶楽部の会員で、ときどき父にホテルで食事をしに連れて行って呉れました。
母には宝塚少女歌劇団に連れて行って貰いました。
手塚治虫のニックネームの由来。
友人の影響を受けて昆虫、科学、天文学に興味を持つようになります。
そして、手塚家の邸宅には広い庭があり、そこは昆虫の宝庫だったようです。
その存在を知り、それにちなんでペンネーム「手塚治虫」を、使いだしたようです。
1941年に中学校入学した年が、太平洋戦争が勃発した年で、1946年、17歳で終戦をむかえ、子供向け新聞に4コマ漫画を開始しました。
その後、大阪帝国大学付属医学専門部を卒業し、1952年、23歳の時に医師免許を取得しますが、母の後押しもあって、専業漫画家の道へ進むことになったのです。
正に、母親は、手塚治虫の天性の素質を見抜いていたかもしれません。
手塚治虫の名言。
「医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。」
1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で、豊島区のトキワ荘へ入居しました。
その後、手塚治虫に続き、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫らが入居し、漫画家の梁山泊と言われました。
その後、トキワ荘はなくなりましたが、今でも、その存在感は大きく、トキワ荘と言えば、漫画家たちの憧れの存在です。
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手塚治虫の心に沁みる名言。
手塚治虫と言えども、漫画家として売れるまでには、多くの挫折や、悔しい思いを、たくさんして来たんだ思います。
「数えきれないほど、悔しい思いをして来たけれど、その度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。」
そんな時、母親の言葉を心の糧にしながら、頑張っていたんじゃないでしょうか。
母の言葉は、百万馬力だったのかもしれません。そして、手塚治虫はこう言ったのです。
「僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対あきらめないものを一つ続けて欲しいと言うことです。」
ブラック・ジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~【電子書籍】[ 吉本浩二 ]
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自分が好きなこと、自分に自信があることを持っている人は、自分に自信が持てる筈です。だから、何でもよいのです、
自分の好きなものを、掘り下げ、長く続けることが出来れば、それは大きな自信に繋がる筈です。
1961年、手塚プロダクションの中に動画部を創立、当初6名のスタッフで立ち上げます。
1962年に、その動画部は、「虫プロダクション」と改名し、最盛期には400名を超えるスタッフが働いていたと言います。
手塚治虫のテーマは「生命の尊厳」だった
「人を信じよ、そして、その百倍も自らを信じよ。」
「人間は何万年も、明日生きるために、今日を生きてきた。」
手塚治虫の生涯にわたるテーマは「生命の尊厳」だったそうです。
それは、昭和初期に生まれた割には、裕福な家庭環境で育ちますが、
第二次世界大戦で、あまりに多くのものを失い、二度と戦争はしてはいけないという思いが、生涯彼の作品を貫くバックボーンだったからでしょう。
「インプットがないのに、アウトプットは出来ません。」
漫画家と言う職業は、無から有を作り出す作業でしょう。
想像力が豊かでないと、出来ない仕事だからこそ、それまでの経験や知識が、いかに大切かを教えて呉れているようです。
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睡眠時間を削って創作に打ち込んでいた。
3日間寝ずのぶっ通し。
「睡眠は三日間で3時間、こんなつらい仕事を40年続けるなんて、馬鹿じゃないと出来ないですよ。」
手塚治虫の仕事は過酷を極めます。
睡眠時間は一日で多くても、3~4時間、締め切り間際になると、もっと短くなったようです。
NHKが手塚治虫の元に、テレビの取材に来た際には、
3日間寝ずにぶっ通しで漫画を描いていて、NHKスタッフを驚愕させたそうです。
手塚治虫が尊敬している人物として挙げたのが、チャーリー・チャップリンと、ウォルト・ディズニーの二人だったのです。
手塚治虫の最期の言葉は「頼むから、仕事をさせてくれ。」だったそうです。
「手塚治虫の名言『鉄腕アトム』の作者.漫画の神様は語る。」への4件のフィードバック
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