蔵書40,000冊の散歩術。
今から40年~50年前の1970年代に、当時の若者たちにサブカルチャーを発信し、若い世代から、絶大な支持をされていた人がいました。
その人は、時間のある限り、神田神保町の古本屋街に通い詰めて、
馴染みの古本屋さんで、欧米のペーパーバックスや、欧米の雑誌を収集していました。
神田神保町での植草甚一の散歩術。
神田神保町で集めた本と雑誌。
なかでも、アメリカの雑誌『ニューヨーカー』は、記事とセンスの良さから、お気に入りの雑誌でした。
彼は神保町に来るたびに、10数冊の本や雑誌を買い求め、
その本を両手に重そうに持って、馴染みの喫茶店に入ると、購入したての本を読むのが、常だったらしいのです。
そうして集めた本や雑誌が、世田谷区経堂のご自宅に、4万冊、ジャズのレコードが4,000枚になっていたと言います。
そんな収集した本や雑誌の評論や、欧米文学の紹介、
そして、雑誌を切り抜いて、コラージュを作ることを、得意としていました。
蔵書4万冊、雑学の大家植草甚一。
植草甚一の『ぼくは散歩と雑学が好き』
こうして、4万冊の蔵書を集めた人こそ、植草甚一さんです。
彼が1970年に『ぼくは散歩と雑学が好き』を刊行した時は、彼が62歳の時です。
『ぼくは散歩と雑学がすき』植草甚一 晶文社
その本の帯には、“しなやかな現代感覚溢れる視線で文学を芸術を政治を風俗を独特の語り口で綴る植草甚一話題のエッセー集”とありました。
そして、『ぼくは散歩と雑学がすき』は、こんな冒頭から始まるのです。
1 五画形のスクエアであふれた大都会
「なにかあたらしいノートブックを買ってきてボツボツこの仕事をはじめよう。あたらしい仕事に取りかかるときは机のうえに置いたノートブックがいいやつでないと感じがでない。
四ページか五ページばかり何か書いたまま放りだしてしまったノートブックがたくさんあるけれど、そんなんじゃだめだ。」
そして、植草甚一さんはノートブックを探し求めて文房具屋を巡りますが、
そこにあったのは3ヵ月前に見たのと同じでもので、買う気が起きません。
しかたなく家に帰って、以前買い求めていて3ページほど使ってあったノートを、その部分を切り取って、
“FIVE CORNERED SQUARE”と英語で書いたのです。
そして、そのノートブックの最初の方に「ヒップとは何か、スクエアとは何か?」と、書きつけたのです。
更に、アメリカでヒップと言う言葉が使われたのは、
1929年にジョージ・アボットがミュージカル『ブロードウェイ』で、使われた台詞だと記し、
ヒップは夜の時間が好きで、スクエアは働いて報酬を受け、その金を浪費している時間だから、
そんな時間で埋まった世界は荒涼として、刺激がないと綴ってゆくのです。
植草甚一さんは、神田神保町の古本屋街で、
ニューヨーカーや、エスカイヤ、コスモポリタン誌を求めて、コラムなどに使う記事を、探していたようです。
1970年10月15日が『ぼくは散歩と雑学がすき』の初版発行日で、
この時、植草さんは62歳だったのです。そして、この本で、若者たちにサブカルチャーを、普及させるのでした。
私も、学生の頃、植草さんの蔵書の秘密が知りたくて、彼の講演会に行った事がありました。
植草さんの講演会。
講演場所は、新宿の紀伊国屋書店だったか、神田神保町の学士会館だったかは、忘れてしまいましたが、
会場には30人程の参加者がいたと思います。
私は、テープレコーダーを持ち込んで、録音しながら彼の講演会を聞いていました。
講演会が終わった後、植草さんが、「サインをしましょう。」と言って呉れたのです。
紀伊国屋書店のブックカバーに書いて貰ったサイン。
私は、植草さんがサインをして呉れるとは、思ってもいなかったので、色紙も持っておらず、
どうしようかと思ったのですが、持っていた、紀伊国屋書店のブックカバーに、サインして貰おうとしたのです。
こんな、私の不躾なお願いにも関わらず、植草さんは、紀伊国屋書店のブックカバーを、繁々と眺め、
構図を考えながら「面白そうですね」とつぶやくと、
ブックカバーのデザインを利用して、コラージュ風のイラストと、サインをして呉れたのでした。
失くしてしまった植草さんのサイン。
それから、植草さんのサインは、私の宝物になりました。私は、そのサインを額に入れて、書棚の横に飾っていました。
しかし、その後、2回ほど、引っ越しをした際に、額から出したことで、そのサインが、行方不明になってしまいました。
絶対に捨てる訳はないので、今でも、書棚のどこかにあるのだろうと思っていますが、 悔やまれて仕方がありません。
本と映画とジャズと雑学の人生。
植草甚一の生い立ち。
植草甚一さんは、1908年(明治41年)に、中央区日本橋小網町の、木綿問屋に生まれました。
10歳の頃から、姉に連れられて、地元の映画館へ通い、映画の面白さを知るのでした。
1930年、早稲田大学理工学部建築学科へ進学しますが、1933年、学費未納で除籍処分になってしまいました。
1935年に東宝へ入社し、1945年頃から本格的な映画評論を書き始め、
「キネマ旬報」「映画之友」「スクリーン」などで活躍しました。
1958年頃から、「スイングジャーナル」誌の連載を主な仕事にしたのです。
たぶん、この頃から、ジャズレコードのコレクションが、増えていったのでしょう。
1966年「平凡パンチデラックス」など、若者向けの雑誌で、紹介された事がきっかけで、
若い世代の読者をが急増し、植草ブームの招来となったのでした。
サブカルチャーの発信者。
還暦を過ぎて、若者から支持された。
1970年の植草さんの代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』は刊行されました。
この時、植草さんは62歳でした。そして、この本で、若者にサブカルチャーを、普及させたのでした。
1973年に、雑誌『ワンダーランド』の責任編集となり、
1974年4月に、植草さんは、初めてニューヨークに渡り、3ヵ月間滞在し、本、映画、ファッションを満喫するのでした。
この時、植草さんは66歳でした。
今なら、66歳時の植草さんの、あの当時の装いを理解する人は多いと思いますが、
40年も前に、還暦を過ぎた人が、あのような格好をしたのですから、凄い人だなと感心してしまいます。
こうして、植草さんは増々、アメリカ文化の発信者となって行くのでした。
通称J.J氏と呼ばれた男。
植草甚一は欧米文学、ジャズ、映画の評論家となり、通称J.J氏と呼ばれるようになって行ったのでした。
植草さんは、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」で有名な、
映画評論家の淀川長治さんと、とても仲が良くて、生涯を通じて親交があったのでした。
今でも残る、植草さんの写真の中で、世田谷区経堂の自宅で撮影された、本に埋もれた写真があります。
あの写真を若い頃見た私は、あんな本に埋もれる部屋で暮らしたいと思っていました。
今見ても、あの部屋の本の量は、半端なく多すぎます。
植草さんは、週に何回も神田神保町に通い、好きなだけ本を買い、重い思いをしながらご自宅に持ち帰り、
また、翌日か、翌々日には、また、神保町に出掛けて行っていたのです。
タモリさんが引き取った4,000枚のレコード
残された4万冊の蔵書と、4,000枚のジャズレコード。
植草さんが亡くなられた後、話題になったのが、あの膨大な蔵書と、ジャズレコードのコレクションの行方でした。
さすがに、4万冊の蔵書は大変でしょうが、
4,000枚のジャズレコードのコレクションは、タモリさんが引き受けて呉れたことで、嬉しく思ったものでした。
4万冊の蔵書を集めた人生。
4万冊の蔵書。
約4万冊の蔵書について、植草さんはこんなことを言っていたそうです。
「古本屋 を開くのに、最低5,000冊は必要だというけれど、3軒は開ける」と豪語していたそうです。
確かに4万冊の蔵書を集めるのは大変なことです。毎日10冊づつ買い求めても、11年掛かります。毎日10冊は読み切れません。
40年で4万冊集めるとしたら、1年間で1,000冊を買い求めなければなりません。
1年間で、1,000冊の本を読むには、1日2冊以上読まなければ、40年で4万冊を読むことは出来ません。
私もサラリーマン人生で、1万冊を集めて読もうとしていました。
それでも、年間250冊×40年間=10,000冊です。そう考えると、凄いことをした人なんです。
植草甚一は、雑学の大家。
本とジャズと映画とミステリーと雑学の大家。
植草さんと言えば、雑学の大家で、ペーパーバックスを読みちらし、ミステリーと文房具にめちゃくちゃ詳しく、
神田神保町に出没し、本と、ジャズと、映画と、雑学と、コラージュが大好きな人でした。
40歳でフリーとなり、48歳でジャズにハマり、58歳の時に植草ブームが襲来し、
62歳で『ぼくは散歩と雑学が好き』を刊行し、66歳でニューヨーク生活をしたのです。
若い頃からも人生を謳歌していたでしょうが、それにも増して、還暦頃から、凄い人生が待っていた人だったのでした。
「『ぼくは散歩と雑学が好き』植草甚一読書の大家の蔵書4万冊 」への1件のフィードバック
コメントは停止中です。