養命酒の草刈正雄俳句CM!「負けるな一茶」解説と背景




養命酒の草刈正雄俳句CM!「負けるな一茶」の解説と背景

薬用養命酒が草刈正雄さんを起用した、

薬用養命酒の新TVCM「養命先生のいる街、夏を乗りきる篇」が、2022年6月から放映されました。

これは「養命先生」シリーズの続編としたものです。

草刈正雄さんの「養命先生」


草刈正雄さん演じる「養命先生」は小学校の教師で、街のみんなの相談役です。

夏の暑い日の、休日の教室で行われる地域の句会が終了後し、一人残って、夏の疲れを訴える女性に対して、「養命先生」は、

「暑き日に まけるな一茶 是にあり」と一句を発します。

すると、黒板が映し出され、そこには「痩蛙、負けるな一茶、是にあり」と、小林一茶の俳句が書かれていました。

また黒板には、「五・七・五」や「季語」と言った俳句の基本事項や、

生徒さんたちの作った俳句が、張り出されていて、熱心に指導する「養命先生」の姿勢が表れていました。

女性が校舎を後にする際には、2階の風鈴が風に揺れる教室の窓から、養命先生が身を乗り出し、

日傘をかざす女性に対して、

「乗りきりましょう!夏を」と力強く呼びかけるのです。

去り行く女性の和服姿が、夏の白い校庭に照り返していました。

そして「私は養命先生に相談しています」と、女性の声が響くのでした。

一茶 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]



やせ蛙まけるな一茶

小林一茶の有名な俳句に「やせ蛙まけるな一茶これにあり」があります。

この俳句に含まれている季語は「やせ蛙」の部分です。

この句の「蛙」は通常春の季語ですが、小林一茶が詠んだこの「やせ蛙」は、ヒキガエルであったと考えられています。

現代語訳にしても、なかなかヒキガエルとまで訳されないので、勘違いされがちですが、

ヒキガエルは夏の季語ですので、この俳句は、夏に詠まれたと言うことが分かります。

この句の意味は「小さくて弱そうなやせ蛙よ。負けないでくれ。私がここで応援しているぞ。」と言う、

蛙に語りかけるような形になっています。

この句は、長野県上高井郡小布施町の曹洞宗の寺院「岩松院」で詠まれたようで、

この句が詠まれた時、2匹のオス蛙がメス蛙を狙って、争いをしていたと言われています。

それをたまたま目撃した一茶が、負けそうになっているやせ蛙に、同情して応援しているようですが、

その背景には、虚弱に生まれた初児、千太郎への命ごいと言う、深い願いが込められていました。

それは、一茶が千太郎の生後20日ほどの時に、岩松院に来て、池のヒキガエルの合戦を見て詠んだ句でしたが、

仙太郎は1ヶ月足らずで、その生涯を閉じたのです。

この時一茶は、54歳でした。

カエルたちの獰猛なまでの生殖行動を見た一茶が、50代ではじめて授かった、病弱だった息子の千太郎への応援歌だったのです。

その背景には。いくつかの説があります。

一茶句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 小林 一茶 ]



俳句の背景。


1つは「自らの不遇を詠んだといわれる説」です。

小林一茶は、20代の頃からすでに、白髪頭でその風貌から女性からモテず、52歳まで結婚が出来ていませんでした。

メスを巡って争う時、痩せている弱々しい蛙は不利で、太ってどっしりとした体格の蛙の方が、メスを手に入れやすいです。

そんな痩せて弱い蛙に、モテない自分を重ねて詠んだ句であると、考えられています。

2つは「虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説」です。

小林一茶は、52歳で初めて結婚します。

その時に生まれた男の子は、前記したように虚弱児で、生まれてからたった1ヶ月ほどで、亡くなってしまいます。

そのあと長女、次男、三男と生まれましたが、全員幼い頃に亡くなってしまいます。

そんな辛い体験を一茶はしていたのです。



また、この句では「蛙」の存在が重要ですが、俳句の世界では「蛙」は大きな存在感があるようです。

俳聖と呼ばれる、松尾芭蕉の超有名な「古池や、蛙飛び込む、水の音」にしても、その存在感は半端ありません。

一茶のこの句の特徴は、蛙に語りかける一茶の言葉を、そのまま書いています。

これは「呼びかけ」という、何かに呼びかけるような口調で句を詠む方法で、

小林一茶の句にはこの「呼びかけ」が多く使われています。

例えば、下記の小林一茶の有名な句もその一つで、

「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」と詠んでいて、生き物への優しさがにじみ出ています。

小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [ 大谷 弘至 ]



小林一茶の生い立ち


小林 一茶(宝暦13年5月5日(1763年6月15日) – 文政10年11月19日(1828年1月5日))の本名は小林弥太郎で、

一茶とは俳号です。

信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、

「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ、江戸時代を代表する俳諧師の一人となったのです。

我と来て遊べや親のない雀 小林一茶句集 [ 花嶋堯春 ]