北欧の小国・フィンランドから来た、奇妙な生き物たちのお話の「ムーミン」ですが、
日本でムーミンが知られるようになったのは、
1990年に、日本でアニメシリーズ『楽しいムーミン一家』(テレビ東京系)の放送が、開始されたからでした。
それは『楽しいムーミン一家 冒険日記』を含む104話からなり、世界60カ国で繰り返し放送され、人気を博したのでした。
ムーミンバレーパークのオープン。
そして、その後も、根強い人気を得ていましたが、2019年3月16日、埼玉県飯能市に、
ムーミンの世界観を体感できる、テーマパーク「ムーミンバレーパーク」がオープンしたことで、そのブームは再燃しました。
埼玉県飯能市は、西武池袋線の飯能駅と、八高線の東飯能駅が乗り入れていますが、
それまでの飯能のイメージは、入間川があって、その先に名栗渓谷、天覧山がある地方都市と言う印象でした。
そして、「ムーミンバレーパーク」がある宮沢湖は、ヘラ鮒釣りの愛好家が、訪れる場所だったのです。
それが、圏央道が開通後、都心からのアクセスが格段に上がり、都心から関越道で鶴ヶ島インターチェンジ経由で飯能へ。
中央道なら高尾ジャンクション経由で飯能へと変貌し、
大自然が身近にあることと相まって、「ムーミンバレーパーク」構想へ、繋がって行ったのでしょう。
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「ムーミンバレーパーク」開業当初は、来園者の急増で、飯能インターチェンジ周辺付近から、
車の渋滞が、起こったりしていたようです。
そんな「ムーミンバレーパーク」は、宮沢湖畔に、
スナフキンのテント、ヘムレンさんの遊園地、ムーミン屋敷などを配し、自然と融和する演出をしています。
「ムーミンバレーパーク」の登場人物は、
ムーミントロール、ムーミンパパ、ムーミンママ、リトルミイ、スナフキン、スニフ、スノークなどの仲間たちです。
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ムーミンパパはこんな人物。
そんな中でも、注目したいのがムーミンパパです。
彼のトレードマークは、黒いシルクハットとステッキで、
家族を守り、助けるためには労を惜しまず、みずからの手でムーミン屋敷を建築しています。
その一方、何か新しくおもしろい事柄に、挑戦したいという願望が強すぎて、家族を振り回してしまうこともしばしばです。
ムーミンパパは読書家で、哲学的な思考を好んでいて、広い分野に渡る、豊富な知識を持っていますが、
なぜか夢見がちで、永遠の少年のような、子どもっぽい一面もあるのです。
ムーミン谷の名言集 パンケーキにすわりこんでもいいの? [ トーベ・ヤンソン ]
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ムーミンパパの出生の秘密。
冒険心を忘れないパパ。
そんなムーミンパパには、生い立ちに秘密があったのです。ムーミンパパの生い立ちは、謎に包まれています。
それはなんと、新聞紙に包まれ、紙袋に入れられて「ムーミンみなしごホーム」の階段の上に、置き去りにされていたのでした。
ホームを切り盛りしていた、おばさんの星占いによれば、
ムーミンパパは、ずばぬけた才能をつかさどる、星の元に生まれたそうです。
そのせいで、様々なことに興味を持ち、ホームの厳格な規則や、
従順なムーミンっ子たちになじめず、ホームを飛び出してしまいます。
そして、発明家のフレドリクソンたちと出会い、海のオーケストラ号に乗り込んで、冒険の船旅に乗り出したのです。
そんな過去があったからこそ、大人になって、家庭を持った今でも、ムーミンパパは、冒険心を忘れていないのです。
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ムーミンパパの名言。
大きな旅立ちというものは、書物の、第一行目の文章のように、重要なものなのだよ。その一行が、この一瞬が、すべてを決定づけるんだ。
あとになって、わたしが残念に思うのは、その時は、立ち止まろうとも、わきを見ようともしなかったことです。
責任感旺盛な人生に、ささえられたり、ぶらさがったりのハンモックの出る幕なんて、ないんだ。
頭はほったらかしておくと、 よく働くものなんだ。
自然に帰れ!人生は一度だけなんだ!義務なんて、地獄に落ちちまえ。
ムーミンはこうして生まれた。
それでは、こうしたムーミンたちを生み出した作者、トーベ・ヤンソンとは、どんな人物なのでしょう。
ムーミンと仲間たちは、フィンランド生まれで、世界中で親しまれています。
彼らは、どんな風に表現や造形が磨かれて、国境を越えて世界中に、広まって行ったのでしょう。
日本では、アニメや小説の印象が強いムーミンですが、
世界中に人気が広がったきっかけは、イギリスの新聞に連載された、漫画が人気に火を付けたのでした。
フィンランド紙では連載をしていましたが、
本格的に連載が始まったのは、1954年にイギリスの「イブニング・ニュース紙」からでした。
そして、この連載は、1975年まで20年以上続いたのです。
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ムーミンは姉から弟へ引き継がれた。
ムーミンの創作に携わったのは、ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソンと、弟で小説家の、ラルス・ヤンソンでした。
弟のラルスは当初、資料集めや、あらすじの提供をしていましたが、
その中で、英訳などに参画し、1960年に姉のトーベから、連載を引き継いだのでした。
トーベ・ヤンソンは、1960年に「イブニング・ニュース紙」の連載を、終了するつもりでいましたが、
契約上、発行元は、別の作者で続ける権利があったのです。
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トーベ・ヤンソン姉弟の作風の違い。
困ったトーベは、弟のラルスに相談しました。
その結果、ラルスは3ヵ月に亘る猛特訓で、ムーミンの作画を、姉のトーベから習ったのでした。
そんな事から、ムーミンでは、姉弟で作風の違いがあるのです。
姉トーベのムーミンは、体も丸みを帯びていて可愛らしく描かれているのに対して、
弟ラルスのムーミンは、鼻が少し尖っていて、表情がよりくっきりと描かれています。
フィンランドでは、フィンランド語に加え、スウェーデン語も公用語としていますが、
スウェーデン語系は国民全体の1割未満(現在は更に減って5%程度)に、すぎない少数派でした。
それは、例えば街を歩いても、自分と同じ言葉を話している人が、殆どいないと言うことだったのです。
言語少数派として育ったことは、トーベの思想に、大きな影響を与えたと言われています。
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トーベ・ヤンソンの生い立ち。
トーベ・マリカ・ヤンソンは1914年8月9日に、
フィンランドの首都ヘルシンキで、ヴィクトル・ヤンソンと、シグネ・ハンマルステン・ヤンソンの長女として生まれました。
父は彫刻家、母はグラフィックアーティストという芸術一家で、
トーベと二人の弟、ペル・ウーロフ(1920年生)とラルス(1926年生)の5人家族で、
両親の影響により、芸術に親しんで育ちました。
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安定的な収入のない父親。
父ヴィクトルは、トーベの幼少時代から、既にフィンランドでは著名な彫刻家でしたが、
その収入は、決して安定的なものではありませんでした。
父に代わって母シグネが、イラストレーター/商業デザイナーとして、収入で生計を立てていたのです。
家計と生活の両方を支えながら、いつでも、おおらかな母として子供を支え、しっかり者の妻であるのお陰で、
思うまま芸術を追求して、生きることが出来た父親の姿は、そのまま、ムーミンパパの姿に重なるのです。
ヤンソン一家は、フィンランド人家族の例に漏れず、毎年夏の数週間を、自然豊かな郊外のサマーハウスで過ごしました。
始めは母方の祖父が住む、ストックホルム近郊の多島海に浮かぶ島で過ごしていました。
1920年以降は、フィンランドの、ペッリンゲ群島地域で過ごしていたのです。
家族と共に過ごした夏の日の幸せな記憶は、ムーミンの物語に色濃く反映されているようです。
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独裁者の風刺画を実名で描く。
それは1920年代で、トーベ・ヤンソンがまだ小学生時代です。
家族で訪れていた、サマーハウスのトイレの壁に、鼻の長い生き物「SNORK」の落書きをしていて、
これがムーミンの原型と、考えられているようなのです。
1932年、ストックホルム工芸専門学校に留学中、寄宿先の叔父に
「台所にはムーミントロールというオバケがいるぞ」と脅かされ、想像したその姿を、絵日記に残しているのです。
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1939年に、第二次世界大戦が始まると、フィンランドもソ連の侵攻により、否応なく戦争に巻き込まれて行きました。
戦争に強く反対していたトーベは、15歳からイラストを描いていた政治風刺雑誌「ガルム」に、
独裁者たちを批判するような、風刺画を描くようになり、それに、実名で署名することを止めませんでした。
そして、いつからか、その署名のすぐ横に、あの鼻の長い生き物が、顔を覗かせるようになったのです。
その生き物は、怒っているか、困っているような表情をしていて、まるで戦争に反対する、彼女の分身のようでした。
1943年に『ガルム』のイラストの片隅に、初めてムーミンと似た姿形の、キャラクターを描いたのでした。
トーベがムーミンの物語を書き始めたのは、そんな最中のことでした。
そして、1945年、長かった戦争は、ようやく終わったのでした。
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『小さなトロールと大きな洪水』
戦後の混乱の中、後に世界を席巻する、ムーミンシリーズの第一作『小さなトロールと大きな洪水』は、簡素な装丁で出版されました。
ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父親を捜す、物語を描いた作品です。
表紙を入れても、48ページしかない小冊子で、本屋ではなく、駅の売店や、新聞スタンドに並べられたと言います。
この第一作は、商業的には決して成功とは言えず、それどころか、わずかな部数で、絶版となってしまいます。
そしてその本は、その後トーベ自身の意向によって、1991年まで再版されず「幻の作品」となってしまいます。
幼い頃から、絵を書くことと同じくらい、お話を作ることが好きだったトーベは、
画業の傍ら、こつこつと執筆を続け、次々に、続編を発表して行きました。
1948年の第三作『たのしいムーミン一家』は、ついにフィンランドと、隣国スウェーデンで、大きな評判をなったのです。
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イギリスで大ヒットのムーミン。
ただそれでも、それが英訳され、児童文学王国のイギリスで出版されたのには、いくつもの偶然に助けられてのことでした。
ところが、この北欧のフィンランドから来た、奇妙な生き物たちのこの話は、
たちまち、目の肥えたイギリスの読書家たちの心を掴み、思いがけず、大ヒットとなったのです。
さらに、それをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇った、
ロンドンの夕刊紙 「イブニング・ニュース」で、この漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけたのです。
イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、
そして、彼女の母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載された程でした。
漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも、人気が及び、
次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなく、ヨーロッパ中で、高い評価を獲得していきます。
こうして、トーベは児童文学作家としての、国際的な名声を不動のものにしたのです。
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弟にムーミンを引き継いだ姉。
1959年、ついにトーベは連載漫画の仕事を、末弟のラルスに引き継ぎ、念願だった、絵画制作のための時間を手に入れました。
さらに1964年には、沖合の孤島クルーブハルに、小屋を立て、
その年からトゥーリッキと二人、夏の数ヶ月を世間から隔絶された環境で、芸術に没頭して過ごすようになります。
1962年には、シリーズ唯一の短篇集である第7作「ムーミン谷の仲間たち」、
1965年には、パパの発案で移住した灯台のある島で、
ムーミン一家が、アイデンティティの危機を描く第8作「ムーミンパパ海へいく」を出版します。
トーベとシリーズの評価は高まり、1966年、児童文学における最高の栄誉とされる、国際アンデルセン賞を受賞したのです。
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ムーミンの原風景。
トーベ・ヤンソンは、1920年代にサマーハウスのトイレに描いた落書きで、鼻の長い不思議な生き物「SNORK」を登場させ、
18歳の時に、叔父に「台所にはムーミントロールというオバケがいるぞ」と脅かされ、想像したその姿を、絵日記に残し、
25歳の時に、反戦を意識し風刺画を描いた横に、あの鼻の長い生き物が、顔を覗かせるようになったのです。
29歳の時に、政治風刺雑誌『ガルム』のイラストの片隅に、初めてムーミンと似た姿形の、キャラクターを描いたのでした。
そして、31歳の時に、ムーミンシリーズの第一作『小さなトロールと大きな洪水』で、ムーミンをついに登場させたのでした。
その間、約20年間、あの鼻の長い生き物を、自分の中で温め、見事に開花させたのでした。
ムーミン全集[新版]9 小さなトロールと大きな洪水【電子書籍】[ ヤンソン・トーベ ]
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トーベ・ヤンソンの名言。
こんな言葉はいかがですか。
せっかく思い立ったのです。
思い立ったら決心して気が変わらないうちに
さっと実行に移しましょう。
初恋と最後の恋のちがいを、ご存じ?
初恋は、これが最後の恋だと思うし、最後の恋は、これこそ初恋だと思うもの。
人と違った考えを持つことは一向にかまわないさ。でも、その考えを無理やり他の人に押し付けてはいけないなあ。その人にはその人なりの考えがあるからね。
たまには休むのもひとつの仕事じゃない?
孤独になるには、旅に出るのがいちばんさ。
ムーミン谷の名言シリーズ3 ムーミンママのことば [ トーベ・ヤンソン ]
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「ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの人生と名言とムーミンパパ」への11件のフィードバック
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