東京を東西に走っている中央線、新宿駅から多摩方面へ、快速電車で20分乗ると東小金井駅です。
駅の北口を出て、線路沿いを新宿方面に戻るように歩くこと5分。住宅地の中に「スタジオジブリ」が出て来ます。
木々に囲まれた落ち着いた環境の中、アニメの聖地があります。住宅街の道路沿いから、わずかに見える距離感が素敵です。
スタジオジブリの鈴木プロデューサー。
そのスタジオジブリで、宮崎駿監督、高畑勲監督と言う、二大巨匠を支え、一時代を築いてきた人物が鈴木敏夫さんです。
その鈴木敏夫さんが体験したことから辿り着いた、貴重な言葉が埋まっているのが、
『ジブリの鈴木さんに聞いた仕事の名言』の本なのです。
鈴木敏夫プロデューサーは、元雑誌記者・編集者で、数々の名言で人々を束ね、やる気を引き出して来たのです。
本の中には「本当にその通り」と頷ける言葉がたくさんあって、社会の中では、自分の思い通りにならない事が沢山あっても、
それでも人生は、自分が信じるところからしか始まらないんだと、励まされる言葉で満ちていました。
それは、「仕事の哲学」と言っても良いものです。
この本では、様々な人が挙げた「鈴木さんからかけられた印象的な言葉」で、構成されていて、
そこには、人生を生きる上で大切にした、多くのヒントが隠されています。
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「やりますか」
宮崎駿監督が挙げたのは「やりますか」の言葉でした。
2013年に引退宣言をした、宮崎駿監督が、その舌の根の乾かぬ内に「長編の新作を作りたい」と言い始めた時。
晩節を汚すのではないかと、鈴木さんは猛反対したそうです。
すると、宮崎駿監督は絵コンテを、20分ぶんだけ描くから、それで判断して欲しいと言ったそうです。
出来上がった絵コンテは、本当に面白かったそうですが、鈴木さんは迷いに迷ったそうです。
そして、返事を待つ、宮崎駿監督のアトリエを訪れると、
宮崎駿監督がニコニコしながら、コーヒーを入れて呉れるのを見た時、ようやく心が決まり、
「やりますか」と答えると、宮崎駿監督は跳び上がらんばかりに喜んだそうです。
天才の思考 高畑勲と宮崎駿 (文春新書) [ 鈴木 敏夫 ]
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「間違っても、自分のこだわりに走っちゃいけない」
「間違っても、自分のこだわりに走っちゃいけない。いつも受け取る相手のことを考える」
「何かを言おう、言おうと思っていると、人の話が聞けなくなる」など、エゴの突出を、戒める言葉が目立ちます。
それは、鈴木さんが、自分から「何かをやろう」とは言い出さないそうで、
いつも、人から求められたことが仕事になってゆくそうです。
そして、「ダビンチやミケランジェロは注文に応じて作品を作っていた。そこには「自分」はなかった」と語り、
いい映画を作って、お客さんを呼ばなければいけないとなると、自分を出そうとすると、判断が狂うと言っています。
仕事道楽 スタジオジブリの現場 (岩波新書 新赤版1486) [ 鈴木 敏夫 ]
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「だめに見える人がいなくなったら、だめなんだよ」
「弱い人も、組織の中には必要だ」
「だめに見える人がいなくなったら、だめなんだよ」
スタジオジブリの中でも、「〇〇は使えないから新しい人に代えたい」と言う声を、何度か聞いたそうです。
そんな時、鈴木さんは「〇〇を辞めさせたら、別の誰かが『使えない人』の候補として注目され始める。君だってどうなるか分からないよ」と話されたそうです。
鈴木さんは本の中でも触れていますが、
「ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』には、完璧な少年は1人も出て来ない。
だから、15人が力を合わせなければ、生き抜いてゆけない。」として、
組織づくりをする時にも、それが理想とし、
それぞれが、他人とは違った何かを持っていて、1人の落ちこぼれもリストラも出さないとし、
才能ある人ばかりで映画を作るのは不可能です。数人の才能ある人と、誠実にこなしてくれる人の両方が必要だとしています。
その他にも、鈴木さんには多くの名言があります。そんな中から、いくつかを紹介します。
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「俺は再生工場だからな」
この言葉の元ネタは、野球の「野村再生工場」だそうです。
野村監督が戦力外通知を受けた選手を、再生させて活躍させたからそう呼ばれました。
鈴木さんは、他で扱いにくいと言われた人を預かっては、
その長所を見出して、活躍させるのが上手なことから、この名言が生まれたそうです。「俺は再生工場だからな」
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「若いことの最大の価値というのは、誰にも必要とされてないことなんだ」
この言葉の背景には、「自分の意見を捨てなさい。自分の意見を言おうとすると人の話が入ってこないから。」と言う言葉です。
まずは、人の話をちゃんと聞きなさい、
自分を押し通すのではなく、人の意見の中にこそ、チャンスの芽が隠されているのではないでしょうか。
そしてこうも語っています。
「お前の意見なんて必要としてない。そのときにちゃんと自分の意見を捨てて、ノートにみんなの言うことを全部書いて、
身振り手振りも書いて、会議が終わったら読み直せ、寝る前に読み直せ、そしてそれをオレに送れ」
鈴木さんは、人生で大事な3つのことを話しています。
「人間が生きてくうえで何が大事か。読み、書き、そろばんの3つ。これができれば、人間って生きていけるはず。
読んで理解すること、その理解したことを書くこと。見てて、若い人にここが弱いことが多い。」
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「得意技を決めろ」
「宮さんの得意技は、ストーリーでも企画でもなく、誰もみたことのない面白いキャラクターを思いつく名人なんだ!
これだけは世界に唯一、宮さんしかない特出した特技なんだ!」
「だから俺は宮さんにそういう企画をやるように仕向けてきたし、そうじゃない得意技でやろうとした時は、
いや、そうじゃないんじゃないですかねえって言って、常に宮さんがそうなるようにしてきた。」
「だから身の回りの自分の関係者のその人にしかない得意技を全部言葉にして、それをいっぱい集めると仕事が面白いんだ。
相手のことも尊敬できるし。お前に持ってないものを持ってる奴がいるからそいつと組め。」
新・映画道楽 ちょい町哀歌 (角川文庫) [ 鈴木 敏夫 ]
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鈴木敏夫さんのその他の名言。
こんな言葉を鈴木さんは、投げかけていたのです。最後に、その他の、鈴木さんの名言を列挙してみます。
仕事の大切さが分かるような気がしませんか。
「いいか悪いかという判断よりね、「好きか嫌いか」で何事も決めたい」
「自分の個性発揮しようなんて考えてないの」
「作りたいと思ったものは作らないって決めてある」
「仕事と人生の境界線を曖昧にするのが好き」
「仕事は生活の糧を得るための手段でしょう。そこになんで「生きがい」を求めるのか」
「経歴はその人の本質じゃない」
「やはり、「当たりそうなこと」だけをやっていてはダメで、自分たちが作りたいものを探求することが大切」
「結局目の前のことをコツコツやらないとしょうがない」
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宮崎駿さんと、鈴木敏夫さんの存在。
スタジオジブリの宮崎駿さんと、鈴木敏夫さん、この二人の存在が、現在のアニメ界を牽引して来ました。
天才的な能力を持つ宮崎駿監督に、プロデューサーとして組織をまとめ上げた鈴木敏夫さんが、
スタジオジブリと言う空間で、世界的な作品を作り上げました。
世の中には、こうした相棒の存在が実証されています。日本を代表する2つの巨大企業にも相棒がいました。
ホンダの創業時の相棒は本田宗一郎と藤澤武夫
本田技研工業株式会社と言えば、本田宗一郎が立ち上げた会社と考えるのが一般的です。
しかし、その陰で、本田宗一郎を支える人物が存在しました。それが藤澤武夫です。
1949年、藤澤は共通の知人の仲介で、本田宗一郎と初めて出会います。その当時藤澤は、池袋で材木店を経営していました。
42歳の本田と38歳の藤澤はたちまち意気投合し、その年の内に材木店を整理した藤澤は、生まれたばかりの企業であるホンダに入社し、常務に就任します。
初対面で本田と藤澤は互いに相手を、自分に持っていないものを持っている…と看破したそうです。
そして、開発を担う本田と、経営を担う藤澤…という戦後日本経済界の最強タッグが誕生したのです。
ソニーの創業時の相棒は、盛田昭夫と井深大。
盛田昭夫は、1921年に名古屋の近郊で生まれます。日本の生活水準からすれば、盛田家は裕福な中産階級でした。
盛田は家業の酒造業を引き継ぐ筈でしたが、父親の会社にほとんど興味を示さず、時間を見つけては電子機器をいじくり回すのが好きでした。
大学で物理学を専攻し、エレクトロニクスに対する関心をさらに膨らませます。
そして戦後、家業の酒造業を継ぐという安楽な道には進まず、
1946年に東京に出て、その後生涯のパートナーとなる、井深大と再会します。
2人は19万円の資金を調達して、東京通信工業と名づけた(東通工)現在の、SONYを創立したのです。
「鈴木敏夫の言葉『ジブリの鈴木さんに聞いた仕事の名言』の本」への2件のフィードバック
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