やる気スイッチを入れて呉れる言葉たち。
なかなか、やる気が出ない時がありますよね。
特に月曜日の朝など、職場や学校で、なかなかスイッチが入らない、そんな方はいませんか。
休みモードのOFFから、実践モードのONにして呉れる、そんな名言・言葉・名曲たちを集めて見ました。 月曜日に会議を設定しているオフィスは、意外と多いいんじゃないでしょうか。
週の始まりなので、1週間のスケジュール確認と、前週の実績報告が行われるでしょう。
実績が上がらない時は、滅茶苦茶、月曜日が嫌になってしまうかもしれませんが、さあ!頭を切り替え実践モードにしましょう。
≪目次≫
奇跡の人、ヘレン・ケラーの名言。
手塚治虫の母の教えが成功への道。
『君たちはどう生きるか』の名言。
ヘミングウェイ『移動祝祭日』の言葉。
ヘップバーンの凛とした名言。
ヘレン・ケラーの名言。
奇跡の人の勇気。
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒に振るか。」
《ヘレン・ケラーのような人生は、凡人には計り知れない苦悩が合ったのでしょうが、そんな中でも、前を向いて進む勇気を自らが示しているのです。》
ヘレン・ケラーは1880年6月27日に、アメリカ南部のアラバマ州タスカンビアで生まれました。
生後19か月のとき、ヘレン・ケラーは高熱に伴う髄膜炎を患います。
一命は取り留めましたが、聴力と視力を失い、話すこともできなくなってしまったのでした。
このため、ヘレン・ケラーは両親から、うまく躾けを受けることも出来なくなり、わがままに育ってしまうのでした。
ヘレン・ケラーが6歳のとき、父母は、娘の将来を心配して、視覚障がい者の学校へ支援を求めました。
すると、住み込みの家庭教師として、マサチューセッツ州ボストン郊外にある、
パーキンス盲学校を、優秀な成績で卒業した、当時20歳のアン・サリヴァン先生が、派遣されて来たのです。
アン・サリヴァン先生は、見えない聞こえない話せないの「三重苦」となっていた、ヘレン・ケラーと対面します。
そして、両親に対して教育方針に干渉しないよう求め、ヘレンケラーに厳しく接し、
指文字を教えるために、持参した人形で、ものには名前があることを教えると、ヘレンケラーの世界が一遍したのです。
ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録 [ アン・マンスフィールド・サリヴァン ]
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手塚治虫の名言。
母の教え。
「数えきれないほど、悔しい思いをして来たけれど、その度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。」
手塚治虫と言えども、漫画家として売れるまでには、多くの挫折や、悔しい思いを、たくさんして来たんだ思います。
そんな時、母親の言葉を心の糧にしながら、頑張っていたんじゃないでしょうか。
母の言葉は、百万馬力だったのかもしれません。
手塚治虫は友人の影響を受けて昆虫、科学、天文学に興味を持つようになります。
そして、手塚家の邸宅には広い庭があり、そこは昆虫の宝庫だったようです。
そこで昆虫の存在を知り、それにちなんで「手塚治虫」を、ペンネームに使いだしたようです。
1941年に中学校入学した年が、太平洋戦争が勃発した年で、
1946年、17歳で終戦をむかえ、子供向け新聞に4コマ漫画を開始しました。
その後、大阪帝国大学付属医学専門部を卒業し、1952年、23歳の時に医師免許を取得しますが、
母の後押しもあって、専業漫画家の道へ進むことになったのです。 母親は、手塚治虫の天性の素質を見抜いていたかもしれません。
『君たちはどう生きるのか』の名言。
コペル君のおじさんの言葉。
「コペル君、いま君は、大きな苦しみを感じている。なぜ、それほど苦しまなければならないのか。それは、君が正しい道に、向かおうとしているからなんだ。」
この言葉は、いじめに苦しむ友達を助けようと、コペル君が声を上げ、立ち向かおうとしますが、
言い出したコペル君は、いざとなると怖くなり逃げ出し、その結果、友達たちはボコボコにされてしまうのです。
その結果に責任を感じ、一時引きこもりになるのですが、友達との修復をおじさんに頼んだ時の、おじさんの言葉です。
『君たちはどう生きるか』という本は、1937年(昭和12年)に刊行されました。
昭和12年と言えば、第二次世界大戦が始まる2年前のことです。
当時の、先行きの見えなくなりつつある世の中で、生きてゆくために、本当に必要なものは、何が必要なんだろうと、考えさせて呉れる名著です。
この本の著者は、吉野源三郎という人物で、月刊雑誌『世界』の、初代編集長を務めた人です。
この『君たちはどう生きるか』は、どんな本なのかと言えば、
子供のための哲学書のような本で、人生どう生きるべきかを、改めて考えさせられる本なのです。
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ヘミングウェイ『移動祝祭日』の言葉。
61歳絶筆のパリを愛する言葉。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たら、その後の人生を、どこで過ごそうとも、パリはついてくる、パリは移動祝祭日だからだ!」
この言葉は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』に出て来る言葉です。
この本はヘミングウェイの没後、1964年に刊行されました。
1920年代の、1921年~1926年の、パリ修業時代を送った思い出を、61歳の絶筆で書き表したののが『移動祝祭日』なのです。
『移動祝祭日』と言う小説のタイトルは、彼の没後に、ヘミングウェイの親友だったホッチナーに、 彼が以前語っていたパリにちなんで付けた題名でした。
ヘミングウェイは、1899年7月21日、イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ西部)に6人兄弟の長男として生まれます。
父は医師で活動的な人物であり、彼は父親から、釣りや狩猟、ボクシングなどの手ほどきを受けたのです。母は元声楽家でした。
1917年、高校卒業後に地方紙の見習い記者となりますが退職。
翌年、赤十字の一員として、北イタリアのフォッサルタ戦線に赴き、重傷を負ったのです。
戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡ります。
パリで画家や詩人たちが集うサロンを開いていた米国人作家のガートルード・スタイン、スコット・フィッツジェラルドらとの知遇を得て小説を書き始めます。
特に、『華麗なるギャツビー』で知られる、フィッツジェラルドは、彼を絶賛していたようです。
パリ滞在中の、1926年に『日はまた昇る』を発表します。
ヘミングウェイは行動派の作家であり、スペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に『誰がために鐘は鳴る』、
1929年には『武器よさらば』などの長編小説を発表し、作家としての地位を確保します。
1952年に『老人と海』を発表し、ピュリッツァー賞を受賞し高い評価を受けたのです。
移動祝祭日 (新潮文庫 新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]
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ヘップバーンの凛とした名言。
『ローマの休日』はローマを世界第3位の観光都市にした。
「チャンスなんて、そうそう巡って来るものではないわ。だから巡って来たら、自分のものにすることよ」
オードリー・ヘップバーンと言えば、あの愛らしくキュートな笑顔と、スタイリッシュな容貌が、
多くの女性の憧れの的となり、世界中の男性の、世界の恋人となった人です。
ベルギー出身のイギリス人で、アメリカで活躍した女優です。
アカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞をすべて受賞し、AFIの「最も偉大な女優50選」の、第3位になったこともありました。
ヘップバーンは、1953年『ローマの休日』で、アカデミー賞主演女優賞を獲得します。
『ローマの休日』は1953年公開された、アメリカ、パナマウント映画が制作した白黒映画です。
既に公開されてから68年経っていますが、いまだに世界中に影響力を与えている映画です。
この映画は、第二次世界大戦後のイタリア経済の復興と、アメリカ人観光客誘致のために、作られたと言われています。
話の筋は、ヘップバーン扮する、アン王女が欧州親善旅行で、最後の訪れたローマを舞台に、 アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリーペック)との、淡い恋心を描いた作品で、
王女が旅先でしか出来ない冒険や恋心を、24時間と言う時間の中で、上手に描いている名作なのです。
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