「活字中毒」。
世の中に、本好きの人はたくさんいます。
良く「活字中毒」と言われるように、活字を読んでいないと、不安で、落ち着かない人がいると言われています。
私は、自分では「活字中毒」だとは思っていませんが、本棚に並べた、自分の本を見る事は大好きでした。
1万冊の本を集める意義。
10,000冊の書庫の本も、20冊のブックエンドに挟んだ本も、その人にとっては、かけがいのない本の小宇宙です。
本の虫。
私が本の虫になったのは、高校入学式の帰り道、駅前の本屋で買ったヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の文庫本でした。
それまで、あまり読書の経験が無かったので、
たぶん、薄い文庫本なら、簡単に読めるんじゃないかと、思って購入したんだと思います。
ヘッセの自伝的なこの小説がきっかけで、本の世界に迷い込んでしまったのです。
買い求めた本を並べて見る。
机の上の私の小宇宙。
その後は、暇さえあれば本屋へ足を運ぶようになり、
20冊程度になったところで、学習机の前に買った順番に、本を並べて見たのです。
すると、そこには、私だけの小宇宙が出来たような感覚になったのです。
そこで、学生手帳に買った本の題名を書き続けることにしたのです。
本を買うために、土日はアルバイトに出掛け、月曜日になると、勇んで本屋に掛け込んだ記憶が残っています。
『徒然草』に蔵書の収集癖あり。
古文の授業の『徒然草』。
ある時、高校の古文の授業で、兼好法師の『徒然草』72段を学習した時です。
そこは「賤しげなる物」の段で、「下品に見える物は、調度品の多さ、硯に筆の多さ、持仏堂の多さ、庭の石や草木の多さ、家のなかの子・子孫の多さ、人に会った時の言葉の多さ、善行を行う方法の多さ」、に続き、
多くても見苦しからぬは、文庫の文。
「多くても見苦しからぬは、文庫の文、塵塚の塵」と続いていました。
現代訳にすると、
「多くても見苦しくない物は、室内で書籍を運搬する、文車に積んだ書籍と、ゴミ捨て場のゴミ」となるようです。
何で兼好法師がゴミが見苦しく無いと、言ったかは分かりませんでしたが、
本はいくら多くても良いんだと、自分なりに解釈してしまったのです。
それからと言うと、毎日のように本を買い続けて、朝から晩まで、授業中も読んでいました。
そして、社会人になると、お金に余裕が出来た事で、更に本の収集が加速してゆきました。
30代後半になる頃には、その数は6,000冊になりました。このペースなら、定年までに、1万冊になるだろうと思っていたんです。
10,000冊に本を集めれば、何かが、見えて来るだろうかと、考えていたのかも知れません。
インドア派から、アウトドア派になった私
「万里の道、万巻の書」。
「万里の道、万巻の書」私の好きな言葉です。
この言葉を教えてくれたのは、作家の森本哲郎さんの本でした。
たくさんの書籍を読むことは、世界中を旅するようなもの、本こそが私の世界だったのです。
そんな私が、厄年近くになった頃、体調が良くなく散歩をやりだしたんです。
時には遠方まで車で出かけ、森や林の中をウォーキングしていた時、
アウトドア派になった私。
渓流沿いの川原で釣り人に出会って、何だかとても面白そうに見えたので、
「釣れますか」と尋ねると「大物は難しいけれど、小振りの山女魚なら結構釣れますよ」
この一言がきっかけで、私はインドア派から、アウトドア派に変わってしまったのでした。
それからの私は、購入する本の内容が釣り一色になりました。
お目当ての釣りの本は、近所の書店ではなかなか無くて、古書店へ行って見てもあまり見かけませんでした。
それで、神田神保町の古本屋街へと、足を運ぶようになりました。
そして、神保町にある、1軒の釣りの専門書を扱っている古本屋さんを見つけたのでした。
それからは、足繁く通う事になるのですが、
その頃から、本よりも釣りの面白さが勝り、神保町通いも、終焉を迎える事となりました。
その後も本の購入は続いていますが、以前のようなペースではなく、釣りやアウトドアに割く時間との関係で、本を探しています。
こうして、私が目標にしていた「万巻の書」を、本棚に集める夢が、消え失せてしまう事になりました。
目標冊数には届かないようですが、本は多くのことを教えて呉れました。それは、この活字のなかに小宇宙があることです。
本棚は、自分だけの小宇宙。
「自分だけの小宇宙」。
どこの書店でもある本ですが、それらを集めて行く事で、その集めた本棚は「自分だけの小宇宙」が出来るのです。
だから、本棚を人に見せる事は、自分の心の中を、見透かされてしまうような、心持になってしまうのでした。
若い頃に多くの本を読む意味。
ただ、若い頃に多くの本を読むことは、その後の人生で、とても有意義なことだと思います。
若い頃、特に10代で読んだ本は、たった1回しか読んでいないのに、頭の中に住み着いたようになり、忘れることがありません。
10代の頃に読んだ、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』、スタンダールの『赤と黒』、
コナンドイルの『緋色の研究』、の文庫本などは、今も、色あせない本なのです。
「一生で1万冊の本を読めるのか、1万冊を収集出来るのか?」への3件のフィードバック
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