パリを、ヘミングウェイが語っている。
それは1冊の本から始まりました。
ヘミングウェイが書いた、古き良きパリの情景を書いた、珠玉の名文があります。
それは、作家、森本哲郎さんの『僕の旅の手帖』のプロローグの冒頭に出てきます。
森本哲郎『ぼくの旅の手帖』
「それは、あたたかく、清潔で、親しみのある気持ちいいカフェだった」とヘミングウェイは書いている。
彼は、そのカフェに入ると、コート掛けに古いレインコートをつるし、帽子掛けに、くたびれて色のさめたフェルト帽をかけ、さて、一隅に席を占めてカフェ・オ・レを注文した。
そして、ギャルソンがそれを運んでくると、ポケットからノートを取り出し、鉛筆で小説の草稿をかきはじめる。
彼がすわっているのは、パリ、『サン・ミシェル広場のいいカフェ』である。
時代は1920年代。とつぜん、美しい女が雨に濡れて入ってくる。彼女は入口近くにすわり、だれかをじっと待っている。
ヘミングウェイはそれをそっとながめる。そしてノートに書きつける。
「美しいひとよ。私はあなたに出会った。あなたは、いま、私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、
また、私が、もう二度とあなたに会えないにしても、あなたは私のものだ。パリも私のものだ」
フランスの、良き時代を表した文章です。
これは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』の冒頭に出て来る一節の描写を、
森本哲郎さんならではの切り口で、切り取り、森本哲郎さんの世界にあわせた、珠玉の文章になっていたのです。
『移動祝祭日』の1920年代のパリ。
街角のカフェに佇み、サン・ミシェル広場を見渡しながら、小説の構想を練っていたヘミングウェイに、
その手を休ませる程の、魅力的なパリジェンヌが突然出現したのです。
彼はその瞬間、彼女に恋をし、そして、パリにも恋をしたのです。何故なら、そこは気持ちいいカフェだったからです。
ヘミングウェイと言うと『老人と海』に代表されるような海の男を連想し、大の釣り好きだったことで知られています。
ヘミングウェイの人生。
1921年~1926年の、パリ修業時代。
ヘミングウェイは、1899年7月21日、イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ西部)に6人兄弟の長男として生まれます。
父は医師で活動的な人物であり、彼は父親から、釣りや狩猟、ボクシングなどの手ほどきを受けたのです。母は元声楽家でした。
1917年、高校卒業後に地方紙の見習い記者となりますが退職。
翌年、赤十字の一員として、北イタリアのフォッサルタ戦線に赴き、重傷を負ったのです。
戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡ります。
フィッツジェラルドと交流と知遇。
パリで画家や詩人たちが集うサロンを開いていた米国人作家のガートルード・スタイン、
スコット・フィッツジェラルドらとの知遇を得て小説を書き始めます。
特に、『華麗なるギャツビー』で知られる、フィッツジェラルドは、彼を絶賛していたようです。
パリ滞在中の、1926年に『日はまた昇る』を発表します。
ヘミングウェイは行動派の作家であり、スペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に『誰がために鐘は鳴る』、
1929年には『武器よさらば』などの長編小説を発表し、作家としての地位を確保します。
1952年に『老人と海』を発表し、ピュリッツァー賞を受賞し高い評価を受けます。
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それ以降、ヘミングウェイの特徴であった、肉体的な頑強さや行動的な面を取り戻すことはなく、
1954年にノーベル文学賞を受賞。しかし同年、二度の航空機事故に遭います。
奇跡的に生還したのですが、重傷を負い授賞式には出られませんでした。
晩年は事故の後遺症による、躁うつ病に悩まされるようになったのです。
執筆活動も次第に滞りがちになり、1961年7月2日、アーネスト・ヘミングウェイはショットガンで自殺。
61年の生涯を閉じました。
ヘミングウェイの61歳の絶筆だった。
そして『移動祝祭日』は、ヘミングウェイの没後、1964年に刊行されたのです。
1920年代の、1921年~1926年の、パリ修業時代を送った思い出を、61歳の絶筆で書き表したののが『移動祝祭日』なのです。
若き日にパリで暮らしていたヘミングウェイについて、森本哲郎さんが引用した、
ヘミングウェイの『移動祝祭日』と言う小説のタイトルは、こんな由来から出来ているのです。
それは、彼が親友だったホッチナーに、こう語ったからです。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たら、その後の人生を、どこで過ごそうとも、パリはついてくる、パリは移動祝祭日だからだ!」
『移動祝祭日』のタイトルの意味。
『移動祝祭日』と言うタイトルは、ヘミングウェイ自身によるものではありません。
彼の死後、この言葉に感銘を受けたホッチナーの助言で、ヘミングウェイの最後の妻、メアリーが、この題名を決めたものです。
1920年代のパリを舞台に、第一次世界大戦後の傷を癒していた、22歳のヘミングウェイが、
行きつけのカフェで、ひとり執筆に没頭し、ガートルード・スタイン、
スコット・フィッツジェラルドと言った、芸術家たちと交流しながら、パリで生きてゆく姿を描いています。
そうです、パリは、いつだって魅惑的な街だったんです。
『移動祝祭日』
『移動祝祭日』の、巻頭には、1960年キューバのサンフランシスコ・デ・パウラにて、と綴られています。
『移動祝祭日』は、始めの章は「サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ」から始まります。
それは、森本哲郎さんの『ぼくの旅の手帖』で紹介した、あの巻頭部分の文章、
「それは、あたたかく、清潔で、親しみのある気持ちいいカフェだった」とヘミングウェイは書いている。のくだりから始まっているのでした。
セーヌ川からパリを眺める。
『移動祝祭日』の中で、ヘミングウェイは、最初の妻であるハドリーと一緒に、セーヌ川に架かる橋の上から、パリを眺める場面が出て来ます。
「私たちは顔をあげた。すると、愛するすべてがそこにあった。私たちのセーヌと、私たちの街と、私たちの街の中の島とか」
ヘミングウェイは、お気に入りのカフェに立ち寄り、
カフェ・クレームを飲みながら短編を書き、セーヌ川の河畔の古本屋で、本を探したりします。
また、ある時は、妻のハドリーと一緒に競馬場に出掛けたり、街を散策してレストランで食事をしたりします。
『移動祝祭日』で描いていたのは、彼が愛して生活していた、1920年代のパリだったのです。
彼は、ハドリーと一緒に、貧しい人たちの住む地区に住みついていたようで、「空腹はよい修行」と言っていたそうです。
「今の時代に、一番欠けているのは、野心を全く持たなくなった書き手と、本当に素晴らしい、埋もれたままの詩だと思うんだ。勿論、どうやって暮らしていくかという、問題もあるけどさ」
彼は、貧乏と共存しながら、貧乏を味方に付けた、生き方をしていたのです。
The Complete Short Stories of Ernest Hemingway COMP SHORT STORIES OF ERNEST H [ Ernest Hemingway ] |
シェークスピア・アンド・カンパニー。
伝説の書店と言われた「シェークスピア・アンド・カンパニー」のシルヴィア・ビーチのことは、
好意的に描いていて、彼には絶大な信頼を寄せていました。
アメリカからパリに移住し、オデオン通りに「シェークスピア・アンド・カンパニー」を開業したシルヴィア・ビーチの店では、
貸本業もしていたようで、ヘミングウェイも貸本を借りていたようです。
そして、人間関係についてはこんな事を言っているのです。
「1日を台無しにしてしまうのは、人との付き合いに限られたから、面会の約束さえせずにすめば、日ごとの楽しさは無限だった。
春そのものと同じくらい楽しいごく小数の人たちを除けば、幸福の足を引っ張るのはきまって人間たちだったのである」
パリに終わりがない。
最終章~私たちはいつもパリに帰った。
そして、最終章「パリに終わりがない」では、
「パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。
私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。」
と結ばれているのです。
こんなヘミングウェイの名言。
「好きでない人間と、旅に出てはならない」『移動祝祭日』より
我々はいつも恋人を持っている、彼女の名前はノスタルジーだ
「書籍ほど信頼できる友はいない」
「釣れない時は、魚が考える時間を与えて呉れたと思えはいい」
「ヘミングウェイ人気作品『移動祝祭日』パリ回想の日々と名言」への11件のフィードバック
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