宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』イーハトーヴの理想郷。




宮沢賢治の『銀河鉄道の夜イーハトーヴの理想郷。

宮沢賢治と言うと「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と言う一文が脳裏をよぎります。

宮崎賢治は、郷里の岩手県をモチーフとした理想郷、イーハトーヴに独特の世界観を創り出しています。

その世界観の中でも、『銀河鉄道の夜』は、その後の時代の中で、影響力のある作品です。


宮沢賢治の『銀河鉄道の夜

 




一 午後の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」

先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。


『銀河鉄道の夜』は、こんな一節から始まります。

『銀河鉄道の夜』は、詩人で童話作家の宮沢賢治の作品の中でも、もっとも有名な代表作の一つです。

初稿を書いたのが1924年で、晩年まで推敲が行われていました。

現在流布しているストーリーは、戦後しばらくして発見された、第4次稿と呼ばれる作品です。

しかし、宮沢賢治の死により、未定稿のまま遺されたことで、

宮沢賢治の生前には出版されることはなく、賢治の死後発表されたのです。

この作品には、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも、様々な解釈が行われています。

また、この作品から生まれた派生作品は数多く、これまで数度にわたり映画化やアニメーション化、演劇化された他、

プラネタリウム番組などが作られており、多くの人達に影響を与えて来た作品です。

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宮沢賢治の理想郷イーハトーヴ



宮沢賢治は、仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行いました。

作品中に登場する架空の理想郷に、

郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られています。

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『銀河鉄道の夜』主人公ジョバンニ。



『銀河鉄道の夜』は、少年ジョバンニが主人公の童話です。

主人公のジョバンニは孤独な少年で、病気の母を看病しながら、

学校の授業が終わると、放課後に活版印刷所に行き、そこでアルバイトをしています。

父親は漁に行ったきり、戻ってきません。

らっこを密漁し、投獄されていると噂され、そのことでジョバンニは同級生にからかわれます。

しかし、親友のカムパネルラだけは違いました。

ケンタウルス祭の夜、ジョバンニが母のための、牛乳を求めて牛乳屋さんに行きますが、

牛乳を売ってもらえず、帰りに同級生のザネリたちと遭遇すると、彼らはジョバンニを馬鹿にしますが、

一緒にいたカムパネルラは、気の毒そうに黙っていました。

そして、ジョバンニは、星祭に行くザネリたちとは反対の方にある、町外れの丘に一人で向かいます。

天気輪の柱の丘で、ジョバンニがひとりぼっちで星空に思いを馳せていると、

突然「銀河ステーション」というアナウンスが響き、光に包まれ、気づくと銀河鉄道に乗っていて、車内にはカムパネルラもいたのです。

ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗り、さまざまな人や景色と出会いながら、銀河を旅します。

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カムパネルラの不条理の死。



それから、ふと、ジョバンニは丘の上で目覚め、牛乳をもらって川へ向かうと、

カムパネルラが溺れたザネリを助け、そのあと行方不明になっている事を知るのでした。

この不思議な童話は、多様な解釈がなされています。

カムパネルラは、いじめっ子のザネリを助けるために溺死してしまいます。それは極めて不条理な死のように映ります。

そして最後で、カムパネルラのお父さんは「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と息子の死を受け入れ、

「ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね」と気遣いさえ見せるのでした。

銀河鉄道の旅は、銀河に沿って北十字から始まり、南十字で終わる異次元の旅です。

また、登場人物の名前についても、「ジョバンニ」はイタリアの洗礼名のひとつ(ラテン語におけるヨハンネス)に由来し、

「カムパネルラ」は神学者トマソ・カンパネッラから取ったと言う推定があるそうです。

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宮沢賢治の生い立ち。


宮沢賢治は1894年(明治29年)に、岩手県花巻にて質・古着商を営む宮沢政次郎と、イチの長男として生まれました。

1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。

3年生の頃から、石川啄木の影響を受けて、短歌を制作したそうです。

1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学し、入学宣誓式では総代として誓文を朗読しました。

詩人、童話作家、教師、科学者、宗教家など多彩な顔を持つ一方、

1926年(大正15年)には農民の生活向上を目指して、農業指導を実践するために羅須地人協会を設立し、

多方面で活動を行いますが、無理がたたり病に倒れ、1933年に37歳の若さで亡くなります。

生涯で多くの短歌や詩、童話などの作品を遺しており、

現在では国内、国外を問わず親しまれていますが、生前に刊行された著書は2冊だけでした。

そのため彼の業績は、生前はほとんど評価はされず、没後、遺稿の出版が相次ぎ、急速に知名度を高めたのでした。

宮沢賢治は、大正文学の牧歌の時代から、昭和前期の文学の混沌への端境期に、東北の片隅でひっそりと活動していました。

そして、その業績が評価されたのは、彼の死後だったのです。

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