誰でも一度は読んだり、聞いたことがある『坊ちゃん』の冒頭シーンは、余りにも有名です。
あの一行を読んだり、聞いたりすると、物語の世界が始まる事を予感させて呉れます。
夏目漱石の世界へ、ページを開きましょう!
夏目漱石『坊ちゃん』
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰こしを抜ぬかした事がある。
なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。
新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談(じょうだん)に、いくら威張(いばっ)ても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はやし)たからである。
小使(こづかい)に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼(め)をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云いったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」
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読者を引き込む無鉄砲さ。
おやじが、「二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか」って叱りますが、
坊ちゃんも、坊ちゃんで、「この次は抜かさずに飛んで見せます」と言う、軽妙な返事が、
可笑しさと無鉄砲な雰囲気を醸し出していて、一気に物語の世界へ、読者を引き込みます。
明治時代の東京で、江戸っ子ならではの、テンポ良い掛け合いを出して、このシーンが、面白いところです。
そんなことがあって、「親譲りの無鉄砲」って言葉が妙に頭に残ります。
これこそが「坊ちゃん」の人柄を、上手に醸し出しているのです。
『坊ちゃん』は、夏目漱石が2番目に執筆したと言われている長編小説で、『漱石全集』の第二巻に入っいます。
「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」と言う有名な一文から始まるこの小説は、
愛媛県の松山に赴任した新米の、江戸っ子教師の「坊ちゃん」が主人公の痛快小説です。
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坊ちゃんを慕ってくれたのは下女の清。
「坊っちゃん」は、幼い頃から無鉄砲で多くのいたずらをして、家族からは疎まれていました。
母親の死後もそれは変わりませんでしたが、下女の清だけは「坊っちゃん」のことを慕ってくれていたのです。
清は明治維新で落ちぶれた身分のある家の出身でした。清は、家族に疎まれる坊っちゃんを庇い、可愛がっていました。
そして、何かにつけて「あなたは真っ直ぐで、良いご気性だ」と褒め、
坊っちゃんが「おれは、お世辞は嫌いだ」と言えば、「それだから良いご気性です」と笑顔で褒めるのでした。
その後、父親も亡くなり、「坊っちゃん」は中学卒業後、神田の小川町へと下宿します。
下女の清は、甥の家に厄介になりながらも、坊っちゃんに早く家と妻を持て、そして世話をすると言うのです。
「坊っちゃん」は、兄から600円のお金を貰い、
それを使って、東京の物理学校(現在の東京理科大学の前身)に通って三年間勉強をしたのです。
その時兄は、清へと50円を「坊ちゃん」に渡したのです。
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四国、松山の新米数学教師へ。
卒業後8日目に物理学校の校長から、四国にある中学校で数学の教師をやらないかと声を掛けて貰い、
即座に、行きましょうと言った事から、「坊っちゃん」は、清を残して四国の中学校に月給40円で、赴任するのでした。
なんだか、清を残して行くシーンは胸が熱くなります。
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親の愛情に飢えていた坊ちゃん。
物語の展開には、腐敗した権力に立ち向かう坊ちゃんの姿とは対照的に「清の愛」が隠されています。
「坊ちゃん」の両親は、兄にばかり愛情を注ぎ、「坊ちゃん」にはあまり愛情を注ぎませんでした。
親には恵まれなかったものの、彼のことを心の底から認め、愛していた人物が奉公人の清でした。
清は「坊ちゃん」が、どれだけやんちゃをしても可愛がり、受け止め、包み込んで呉れていたのでした。
しかし、「坊ちゃん」は最初、彼女の愛情を受け止めませんでした。なぜなら清は家族ではなく奉公人であるため、血のつながりが無かったらです。
しかし、「坊ちゃん」は、松山の学校に赴任し、清のもとを離れて、ようやく彼女の愛の深さに気づくのでした。
母親からの愛情をあまり受けていない「坊ちゃん」にとっては、清こそが母親だったのかもしれません。
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四国、松山の中学校へ赴任した。
「坊ちゃん」は赴任先の、松山の学校で、教師を務める事になるのですが、江戸っ子気質で、血気盛んで無鉄砲な新任教師だったので、
赴任先の松山、田舎の古いしきたりや慣習などに、違和感を持っていたのです。
近代化の進む東京で育った江戸っ子気性で、しかも無鉄砲な「坊ちゃん」は、
そのような松山のしきたりや慣習に大人しく従えるはずもなく、保守的な松山の慣習を、改革していく事を心に決めるのです。
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『坊ちゃん』1908年(明治40年)刊行。
この小説『坊ちゃん』は、1906年(明治39年)に、『ホトトギス』で発表され、
1907年(明治40年)発行の『鶉籠(ウズラカゴ)』に収録され、その後は、単行本化されて行きました。
この小説の舞台は明治維新後であり、東京では近代化が大幅に行われていましたが、
地方では、まだまだ保守的な考えや慣習が、色濃く残っていた時代だったのです。
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陰湿な環境の中で戦う「坊ちゃん」
「坊っちゃん」は中学に赴任し、校長をはじめとして教師たちと対面すると、次々に、
あだ名を付けて行きますが、既につまらなさを感じていました。
赴任して見ると、この学校の生徒たちは癖ものだらけで、
「坊っちゃん」が、蕎麦屋で天麩羅を四杯食べたこと、団子を二皿食べたこと、
温泉で泳いだことなどを冷やかし、初めての宿直では、寄宿生たちが嫌がらせをしたのです。
「坊っちゃん」は、いたずらについて問いただしますが、寄宿生たちは、それを認めませんでした。
「坊ちゃん」は、数学の主任教師の山嵐から、下宿を出るよう言われます。
理由は「坊っちゃん」の暴力ということですが、「坊っちゃん」に覚えはありません。
結局、「坊っちゃん」は英語教師のうらなりに、新しい下宿を紹介してもらいますが、山嵐との溝を深めまてしまいます。
「坊っちゃん」は新しい下宿先で、この辺りで一番の別嬪だと言う、マドンナの話を聞きます。
マドンナは、うらなりの婚約者でしたが、途中から割り込んだ教頭の赤シャツが、横取りしてしまったのでした。
しかも赤シャツは、うらなりを、日向の延岡に転任させることを、本人の了承なしに決めてしまいます。
うらなりの送別会の日、山嵐は「坊っちゃん」に謝罪します。
下宿を追い出した理由は、下宿の主人の作り話であることを知ったからでした。
二人は赤シャツをこらしめてやるという目的が一致し、友情を深めて行くのでした。
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因果応報の末に終わりがあった。
「坊っちゃん」と山嵐は、赤シャツが人に隠れて温泉の街の角屋に行き、芸者と会っていることを突き止めます。
赤シャツをへこませるために、赤シャツが芸者を連れて、角屋に入り込むところを、見届けることを決意します。
しかし、赤シャツは山嵐を邪魔に感じ、辞職に追い込みます。
それから「坊っちゃん」と山嵐の見張りは始まり、
八日目にしてついに、赤シャツと腰巾着の野だいこが、角屋に入っていくのを目撃します。
二人は赤シャツと野だいこが出てくるのを待ち、夜明けに山嵐と芸者遊びについて詰問し、しらを切る彼らに天誅を加えたのでした。
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『坊ちゃん』の結末。
このことがあって「坊っちゃん」は、すぐに学校を辞め、東京へと戻りました。
ある人の斡旋で月給25円の街鉄の技手になり、家賃6円の家で、清と共に再び暮らし始めます。
「街鉄」とは現在の都電のことで、当時は路面電車でした。
同居する清は「至極満足」だったそうなので、それなりの待遇だったのではないかと想像しますが、
大好きな坊ちゃんと暮らせさえすれば、立派な家でなくても、
清は満足そうでしたが、その年の二月に肺炎で亡くなってしまいました。
亡くなる前日、清は坊っちゃんのお寺に埋めてほしいとお願いしたため、清の墓は小日向の養源寺に置かれたのです。
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夏目漱石の原体験があった。
『坊ちゃん』に描かれている『勧善懲悪』の世界は、現代の私たちが読んでも、違和感なく読める魅力的な作品です。
作者の夏目漱石自身が、高等師範学校(後の東京高等師範学校、旧東京教育大学、現在の筑波大学の前身)で、英語嘱託となって赴任を命ぜられ、
愛媛県尋常中学校(松山東中学の前身)で、1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、
1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ、赴任するまでの体験を下敷きにして、
後年、この『坊ちゃん』を書いたのでした。
機会ある毎に読み返すと、明治の空気に触れられ、勇気が湧いてくるような小説です。
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【関連】
漱石ファンの作者の著書『神様のカルテ』
漱石好きにはたまらない本があります。それは『神様のカルテ』です。地方病院に勤める主人公の医師が、夏目漱石ファンで、
その語り口調が、まるで漱石の『吾輩は猫である』の登場人物のように語るのです。
作者の夏川草介さんと言う名前はペンネームで、それぞれの文字を、著名な作家からとっています。
「夏」は夏目漱石から、草介の「草」は漱石の作品『草枕』から「川」は川端康成から、「介」は芥川龍之介から取ったそうで、漱石に心酔しているのです。
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「夏目漱石『坊ちゃん』無鉄砲な冒頭シーンが読書を誘う小説。」への3件のフィードバック
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