島崎藤村の『夜明け前』は、日本の近代文学を代表する、小説と評される名作です。
主人公の青山半蔵は、島崎藤村の父である島崎正樹がモデルで、
幕末維新の動乱期を描いた歴史小説としても人気が高いのです。
木曽路はすべて山の中にある。
『夜明け前』は、江戸末期の幕末から、明治に入る動乱期を描いています。
そして、この小説の書き出しは、あまりにも有名な、「木曽路はすべて山の中にある」と言う一文から始ります。
木曽路は日本でも有数の宿場町で、徳川時代の根幹をなす交通産業そのものでした。
しかし、徳川の時代を支えた宿場町であった木曽路も、ペリー艦隊の黒船の来航を契機として、大きく揺らぐことになります。
黒船来航の噂は、当時の人々の間でも話題となり、交通の要所であった木曽路も、その例外ではありませんでした。
そんな状況のなかで、時代は江戸から明治へと徐々に変化していったのです。
夜明け前 第1部 上 (新潮文庫 しー2-7 新潮文庫) [ 島崎藤村 ]
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主人公のモデルは藤村の父親。
そんな時代を、島崎藤村は、主人公である青山半蔵を通して描いたのです。
『夜明け前』は、島崎藤村が7年の歳月をかけて書いた大著で、彼の父が生きていた、明治維新前後の動乱期の状況を背景に、
父親の苦悩に満ちた生涯を、描き出した作品として評価されています。
『夜明け前』の中で、島崎藤村は、維新前後を下から、つまり庄屋、本陣、問屋の人たちを中心に描き出したのです。
そのため作中では青山半蔵を中心に、数多くの当時の庶民たちが登場し、実名の大名や役人なども多数登場しています。
夜明け前 第2部 上 (新潮文庫 しー2-9 新潮文庫) [ 島崎藤村 ]
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物語の舞台は、馬籠・妻籠。
『夜明け前』の舞台となったのは、馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)です。
そして、「木曽路はすべて山の中である」と言う有名な一文から始まり、馬籠は木曽十一宿の1つで、木曽路の最初の入口です。
宿としての集落は古くから存在していましたが、慶長6年には幕府が宿駅として認定した事から、馬籠宿として整備されました。
木曽路は、江戸時代には、参勤交代や大名・皇族のお輿入れにも使われて来た街道です。
馬籠と妻籠は、中山道にある宿場で、中山道は江戸から長野を経由して、京都へと向かう街道の1つで、
長野県を通っている道が、木曽路と呼ばれています。
中山道とは、江戸時代の五街道のひとつで、京と江戸を結んだものです。
全工程が約540kmの街道に、69ヶ所の宿場が置かれ、そのうち11宿が木曽にあります。
木曽川に沿って険しい峠を越え、深い谷を抜け、山の底を縫うようにして伸びるのが木曽路なのです。
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主人公は王政復古を願っていた。
『夜明け前』の中で、馬籠で本陣・問屋・庄屋を代々の家業としてきた家に生まれ、
その家業を継いだ主人公・半蔵は、「平田国学」に傾倒して王政の復古を願いました。
日本で王政と言うのは朝廷のことを意味しています。
物語の背景では、歴史的な転換期である、幕末の大政奉還がなされ、政権は朝廷へと返還されました。
本来ならば、朝廷による統治が行われる筈でしたが、実際には、そのようにはなりませんでした。
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幕末は日本の西洋化を加速させた。
幕末の動乱の中で到達したのは、「日本の西洋化」だったのです。
この当時の国学の拠り所となったのが、平田篤胤(あつたね)でした。
この平田の書いた書籍を元にして国学の議論が展開されたことから、当時の平田国学と呼ばれていたのです。
『夜明け前』の中で、主人公の半蔵は、この平田国学に傾倒して行くのです。
半蔵は国学を広めるために、一念発起して上京をします。
しかし、国学を広めようとする半蔵を、世間は冷たく罵り、やがて世間の厳しさに飲まれた半蔵は、酒に溺れるようになっていきます。
国学に傾倒している半蔵の思いとは裏腹に、明治の日本は西洋化は進んでいきます。
更に半蔵の息子が、英学校への進学を希望し、半蔵は精神を壊していくのです。
果たして、半蔵はどうなってしまうのでしょうのでしょうか。
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島崎藤村が描きたかったものとは。
島崎藤村が『夜明け前』の中で、描きたかったものは何でしょう。それは、西洋化に戸惑う主人公の心境でした。
大政奉還によって、江戸幕府から政権は天皇へと戻されました。
西洋から新しい技術や文化が入って来て、当時の人々の生活は大きく変化した事でしょう。
その意味ではタイトル『夜明け前』の「夜明け」とは、「日本の西洋化」を意味していることになるでしょう。
夏川草介さんの著書『神様のカルテ』
夏川草介さんの『神様のカルテ』では、
「明けない夜はない。やまない雨はない。」と言う、主人公が学士殿に語った言葉が出て来ます。
それは、「明けない夜はない。やまない雨はない。そういうことなのだ、学士殿」と、主人公の栗原一止が語るのです。
これは、大学受験に失敗し、信州の田舎町に、8年住み着いていた学士殿が、
息子は東京の大学で、学問を続けていると、固く信じていたという母を亡くし、出雲の実家に帰る時に、
主人公の栗原一止が、餞別として島崎藤村の『夜明け前』を、手渡した時のセリフです。
「けっしておもしろい話でも気持ちのいい話でもない。葛藤と懊脳(おうのう)がどこまでも続く果てしない物語だ。
その苦しい中に、少しずつ未来を切り開いていく実に地道な物語だ。私が高校時代に古本屋で手に入れた本でな。壁にぶつかった時はよくこの本を開いていた。
今はまだ、私の人生の“ 夜明け前 ”なのだと自分に言い聞かせて」・・・
「明けない夜はない。止まない雨はない。そう言うことなのだ、学士殿」
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島崎藤村の生い立ち。
島崎藤村は、1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれます。
島崎家は馬籠の郷士であり、代々宿場や庄屋、問屋を務めていました。
藤村は島崎家の7人兄弟の末っ子で、島崎家は馬籠で、大名が利用する宿場を運営する家系でした。
父親の正樹は、島崎家の17代当主であり、国学者でもありました。
藤村は父・正樹から多大な影響を受けていて、小学校に入学する頃には、中国の論語や、孝経などの古典を教わっています。
1881年に東京の泰明小学校に通うため、兄と上京し、
中国最古の古典詩経や、松尾芭蕉等の日本の古典、更には西洋文学など、勉強熱心な学生生活を送っていました。
生ひ立ちの記 他一篇 (岩波文庫リクエスト復刊) [ 島崎藤村 ]
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しかし、14歳の頃、父親の正樹が発狂の末、獄中死しています。
正樹は明治維新によって、変わりゆく日本に気がおかしくなり、寺院への放火未遂で捕まっていたのです。
その後も、父を偲びつつ、恩師の影響でキリスト教に入信するなど、学業に励んでいます。
卒業後は明治女学校の英語教師となり、
更に翌年は北谷透谷と星野天知が出版する雑誌『文学界』に参加し、劇詩や随筆を発表しました。
1892年、20歳頃、明治学院女学校の教師となりますが、生徒の佐藤輔子と、禁断の恋に落ちてしまうのです。
藤村は大きな後悔を味わい、教師とキリスト教を辞め、しばらく関西方面を放浪した後に、宮城県の東北学院の教師となります。
その後、兄の逮捕や詩人・北村透谷の自殺、母の病死、さらに愛する輔子の病死など、次々と、アクシデントに襲われます。
そのころ起こった出来事は、後に発表された『春』に描かれています。
そして東京へ戻り、第一詩集となる「若菜集(わかなしゅう)」を刊行します。
情熱的な青春時代の想いを込めた詩は、たちまち若者たちの人気となり、
詩人・島崎藤村の名前は、日本中で知られるようになりました。
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「島崎藤村『夜明け前』は、幕末維新の西洋化の夜明けの意味。」への4件のフィードバック
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