バブル崩壊の影響に翻弄された国道沿いの4軒の農家さん。

 

フィクション】国道沿いに、4件の農家がありました。

これはバブル時代のフィクションです。

ある国道沿いに4軒の農家さんがありました。

その周辺は開発され、新興住宅地が広がり、国道沿いには多くの店舗が出来ていました。

その4軒の農家さんは、野菜を中心に、都市近郊型の農業を続けていて、空いた土地には1~2棟づつのアパートも持っていました。

バブルがやって来て、猛威を振るった。

バブルの波が押し寄せた。

農業をしながらアパート経営をしていた、そんな農家さんにもバブルの波が押し寄せて来ました。

建築業者、フランチャイズ、金融機関などが絶えず訪問して来ては、

今がお金を殖やす、絶好のチャンスですと、口説いていたのです。

保守的な考えの農家さんとしては、先祖伝来の農地をお金に換える事に、抵抗感が有ったようですが、

押し切られた格好で、農地の転用を選択をしたのです。

1軒目の農家さんは、コンビニへの賃貸を決め、店舗建設をしてコンビニへ貸し出し ました。

2軒目の農家さんは、賃貸マンションを建築し、本格的な不動産賃貸業になりました。  

3軒目の農家さんは、ディスカウントストアーへの賃貸を決め、店舗建設をして、ディ スカウントショップへ貸し出しました。

4軒目の農家さんは、家訓に「土地は手放すなかれ」と有った事と、

自然に触れ合う仕事に、魅力を感じていたため、その提案は受けませんでした。

突然のバブルの終焉。

そして、バブルが崩壊しました。

そして、バブルが突然崩壊しました。

ご存知のように株価が暴落し、しばらくすると不動産価格が下がり出し、景気が悪くなりました。

銀行に多額の不良債権が発生して、政府が大手銀行に対して、公的資金の注入を決め、救済に乗り出しました。

農家さんはどうなったのでしょう。

まず始めに兆候が出たのは、3軒目の農家さんでした。

賃貸したディスカウントショップが、売り上げ不振で、倒産してしまいました。

続いて、1件目の農家さんが、コンビニの経営不振、撤退されてしまいました。

2軒目の農家さんのマンションは、近隣の物件に比べて、家賃が割高だったため、入居率が30%を切ってしまいました。

いずれの農家さんにも、銀行融資の借入残高と、賃貸物件が残りました。

4軒目の農家さんは、変わらず、都市近郊型の農業を続けていました。

そしてバブル崩壊から数年後、長年の夢だった、ガーデニングと農業を一体化させた、

体験型施設を作り、ご自分の強みを生かした経営で、地域のオアシス的存在になったのです。

バブル崩壊で翻弄した人たち

バブル崩壊後の農家さんたち。

これはバブル崩壊後のフィクションです。

その後、1軒目~3軒目の農家さんは、どうなったのでしょう。

1軒目の、コンビニへ賃貸した農家さんは、税理士などに協力してもらいながら「事業再生計画書」を作り、

銀行に対して一定期間の、元金据え置きと、貸出金利の引き下げを要請しました。

銀行と共に事業再建を歩む。

事業再生に踏み出した。

金利は従来の2/3になり、返済元金の猶予があって、コンビニの違約金で、一定期間の返済が可能になったのです。

その後銀行のあっ旋により、新規開業する歯科医に賃貸する事が出来たのです。

家賃の賃料を下げ、確実に返済出来るように、返済期限を延長してもらいました。

但し銀行からは、正常返済に戻ったら、金利を元に戻して欲しいと、条件が付きました。

賃貸した歯科医は評判が良く、駐車場も広かった事から、患者さんが増え、更に口コミで患者さんが増えています。

2軒目の賃貸マンションの農家さんは、急激に入居率が下がった原因が、賃料に原因がある事から、

近隣の家賃相場と同等にし、こちらも「事業再生計画書」を作り、

銀行に対して下げた家賃で返済できるよに、返済方法の変更と、貸出金利の引き下げを要請しました。

返済期間は耐用年数一杯まで、延ばしてもらった事で一安心しています。

3軒目の農家さんの、ディスカウントショップの建物は、3軒の中では、一番建築費が安かったのですが、

何せ、入居者が倒産で逃げてしまったので、苦労されました。入居保証金が少なかったからです。

ロードサイドの店舗事情。

こちらも「事業再生計画書」を作り、銀行に対して、元金の返済猶予と、貸出金利の引き下げを要請しました。

ガランとした、倉庫のような建物は、なかなか、次の借り手が見つかりませんでした。

そこで、3軒目の農家さんは、ロードサイドの店舗事情がどうなっているのか、自分で見て回るようにしました。

その時、思ったそうです。

「なんで賃貸事業を始める前に、ロードサイドの店舗事情を見て回らなかったのか」と、後悔したそうです。

数か月が経過した時、ドラッグストアがロードサイドに多く出店し出している事に気になり、

その業界動向を調査して、直談判と賃料の大幅値下げで契約に漕ぎつけたと言います。

「自分がやる事業なんだから、自分が納得しなければ、始めるべきじゃなかった」と思ったそうです。

あの国道沿いを通るたびに思います。

事業は平静に戻ったけれど、土に関係した仕事をしているのは、4軒目さんだけです。

他の農家さんも、土に触れたいんじゃないかと。

バブルに翻弄された銀行員の苦悩

ある銀行員の悩み。

 これはバブル崩壊後のフィクションです。

国道沿いから徒歩10分の駅前に、F銀行のK支店はありました。その支店で、渉外係の鈴木君は悩んでいました。

1989年12月29日の大納会で、日経平均が、38,957円の終値を付け、来年もこの調子で行くと思っていたのです。

しかし、年明けの、1月4日の大発会で株価は、暴落してしまいました。

その頃の日本経済は、円安で、輸出産業が好調、大幅な貿易黒字国になっていたんです。

銀行に提出した「事業再生計画書」。

不動産融資総量規制。

そんな日本の好景気が、貿易摩擦を生み、円高への移行策で、プラザ合意がなされたのです。

1990年3月に日銀が「不動産融資総量規制」を行った事で、不動産投資に流れていた資金が、回らなくなったのでした。

鈴木君が、農家さんの1軒目~3軒目までの融資を実行したのが、総量規制の前年の事でした。

これらの融資の取扱高が、著しく優秀なことから「頭取賞」を受賞していたのです。

その受賞から4ヵ月後、農家さんの融資の返済が、滞り出したのです。

銀行では、融資を実行してから、1年以内に延滞になった融資については、特別監査が行わます。

当然、この融資の決裁には支店の、融資課長や支店長の決裁を経て、

更に、本社の審査部の決裁が無いと、融資は出来ませんが、その検証をされたのです。

幸い、監査結果は問題ありませんでしたが、

「頭取賞」を取った矢先に、延滞が発生したことについて、行内でいろいろ噂ばなしが飛びかいました。

「事業再生計画書」の作成。

一刻も早く、延滞を解消しなければなりません。

本社の融資管理部と協力して「事業再生計画書」の作成を、お客さまに提案し、銀行として出来る限りの支援をしたのです。

結果的には、延滞も解消しましたが、鈴木君はまだ悩んでいました。

あの時、あの融資をして、良かったんだろうか?お客さまは本当に、あの事業を、望まれていたのだろうか。

事業をするにはリスクが付きまとう。

融資に際して、事業にはリスクがあることを、キチンと説明しただろうか、お客さまは本当に理解していたんだろうか。

バブルの頃の銀行は、不動産担保さえあれば、たいした検証もしないで、貸出を優先させていたんじゃないかと。

鈴木君は気づいたんです。もっと、お客さまのことを知ろう。担保に依存する融資から脱却しよう。

そのためには、財務分析とキャッシュフローを、キチンと理解し、

担保に依存しなくても、正しい返済財源を、把握した融資を、銀行はすべきなんじゃないかと。

バブル崩壊から学んだこと。

バブル崩壊から25年後。

あれから、25年以上経ちました。駅前のF銀行のK支店に勤務していた渉外係の鈴木君は、その後、どうなったんでしょうか。

当時は、不動産価格が下落し、土地神話が崩壊して、株式相場も下がり続け、

各企業は資産を大きく毀損し、多くの金融機関が、生き残りを賭けて、合併を繰り返して来ました。

銀行の合併と銀行員の苦悩。

金融機関の生き残りを賭けた合併。

大手の都市銀行が、合併を繰り返す事で、4つのグループのメガバンクとなり、

地方銀行や地域金融機関も、生き残りのために合併をして来た日々でした。

あの頃の鈴木君は反省していました。

銀行は不動産担保さえあれば、たいした検証もしないで、貸出を優先させていたんじゃないか。

もっとお客さまのことを、知るべきじゃなかったのか。

担保ばかりに依存する融資から、脱却しなければ、いけないんじゃないのか。

そのためには、財務分析とキャッシュフローをキチンと検証して、

担保に過度に依存しない、正しい返済財源を把握した融資を、銀行はすべきなんじゃないかと。

バブルの教訓。

 久しぶりに、国道近くの駅前にある、あの支店を訪ねると、銀行名が変わっていました。

M銀行のK駅前支店と言う名前に、変更されていたのです。

銀行の窓口で鈴木君の事を尋ねると、驚いた事に彼はその支店にいたのです。

彼は奥の席から出て来てくれました。

頭に白いものが目立ち始め、少し恰幅が良くなっていた鈴木君から頂いた名刺には、支店長の肩書がありました。

彼は、その後の話をしてくれました。

バブルが崩壊した後、

銀行は不良債権の処理に、長い年月を掛けて「失われた20年」と呼ばれるような厳しい、長い時代を送って来ました。

そして銀行は、生き残りのためには、量の拡大と効率化を求めて合併をしたのです。

銀行も銀行員も淘汰された。

表面上は対等合併でしたが、鈴木君が勤めていたF銀行は、預金量が少なかったため、実質的には吸収合併だったと言います。

効率化と言う名目で、多くの店舗が統廃合され、組織の余剰人員が退職者を招き、多くの仲間たちが銀行を去って行きました。

その結果、銀行の業績は、徐々に回復したのです。

鈴木君の上司や先輩たちは、丁度その狭間の中で苦しみ、退職して行ったそうです。

鈴木君はまだ、入社3年目だった事から、その波には飲み込まれずに済んだようです。

鈴木君は知識と経験を積んで、1年前に支店長に抜擢され、懐かしいこの支店に戻って来ていたのです。

今でもお客さまの為に何が出来るか自問し、

「あの時の辛い経験は二度としたくないので、お客さまの役に立つ仕事をしています」と話してくれました。       

今でもお客さまの為に何が出来るか自問し、

「あの時の辛い経験は二度としたくないので、お客さま目線に立って仕事をしたい」と話したのです。