朝日新聞の2021年6月26日「be on Saturday 」に、「今こそ読みたい太宰治」が掲載されました。
副題に「交錯する絶望と希望」として、
今なお、多くのファンに愛され続ける太宰治の理由を、アンケートに基づき、考察していました。
6月19日は「桜桃忌」
太宰治が愛人とともに、東京・三鷹の玉川上水に入水したのは、1948年6月13日。遺体が発見された6日後の6月19日は、
太宰治の、39回目の誕生日であったことから、太宰治を追悼する「桜桃忌」として定着して来たのです。
太宰治の代表作と言えば『人間失格』で、スキャンダラスな死に方をした直後に、刊行された単行本がベストセラーとなり、
新潮文庫の累計発行部数ランキングでは、夏目漱石の『こころ』と、トップを競う小説です。
太宰治の足跡。
太宰治の本名は、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれます。
父親は貴族院議員も務め、邸宅には30人の使用人がいました。
小学校を首席で卒業します。14歳の時に父親が病没し、長兄が家督を継ぐ(太宰治は六男)ことになります。
16歳の頃から小説やエッセイを、クラスメートと作った同人雑誌に書き始めたのです。
高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は、200篇にも及ぶと言います。
彼が18歳の時に、敬愛する芥川龍之介が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄することになりました。
1930年、東大仏文科に入学。
かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後、すぐ井伏のもとを訪れ弟子入りをしたのです。
太宰治の手紙 返事は必ず必ず要りません (河出文庫) [ 太宰 治 ]
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読者ランキング。
1位。『人間失格』(1948年)
「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から、男の手記は始まります。
男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだすのです。
でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのでした。
「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。
人が生きる意味を問う、太宰治の捨て身の作品です。
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2位。『走れメロス』(1940年)
アンケート回答者の既読率は76%超と、『人間失格』の55%を大きく上回ります。
それは、1950年代後半から1960年代に掛けて、
中学の国語教科書への採用が相次ぎ、定番教材になったことが、大きく影響しています。
1位と2位を比較すると、世界観の落差に驚きます。
人間を恐怖するあまり、サービスとして「道化」を演じ続ける『人間失格』の主人公に対し、
メロスは、友の信頼に応えようと、命がけで走り続けます。
太宰自身は、彼の作品が教室で道徳的に読まれることなど、想定していなかった筈で、
友の命を救い、暴君だった王を改心させた後に、メロスが真っ裸であることを明かして物語は終わります。
感動を台無しにするような展開です。
『人間失格』も最後に、主人公は「神様みたいないい子でした」と、登場人物の一人に語らせて、物語をひっくり返すオチが付いています。
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3位。『斜陽』(1947年)
破滅への衝動を持ちながらも、“恋と革命のため”生きようとするかず子、
麻薬中毒で破滅してゆく直治、最後の貴婦人である母、戦後に生きる、己れ自身を戯画化した流行作家上原。
没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためには、
もっと美しい滅亡が必要なのだという悲壮な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描いています。
昭和22年に発表され、“斜陽族”という言葉を生んだ、太宰文学の代表作です。
この作品は『人間失格』の次に売れた本で、入水した女性とは別の、愛人の日記を、下敷きにしたとされています。
この二人の間の娘が、作家太田治子さんで、正妻との次女津島佑子さんも作家となり、
『火の山-山猿記』は、NHK連続テレビ小説「純情きらり」の原案になっており、
太宰治の娘さん二人が、作家になっているのです。
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【抽出】
4位。『富嶽百景』(1939年)
『富嶽百景』は、太宰治の自己破壊などの、暗いイメージとは異なり、明るく、前向きな雰囲気がある作品です。
太宰治が甲州へ向かった時のことが題材となっており、
その土地の人との交流や、富士山に関するエピソードが、ベースとなっています。
作家の「私」は、甲州へ向かって、井伏鱒二(いぶせますじ)が滞在する茶屋で、過ごすことになりました。
そこは、富士山が一望できる茶屋でした。
私は、富士山が見えるその土地で、見合いをしたり、地元の人たちと触れ合ったりします。
その過程で、私の富士山のとらえ方は、徐々に変化していくのでした。
この小説には、十余りの富士がでてきます。
しかし、単に山としての富士を描写した文章はひとつもなく、富士を書いているようで、実はすべて心境を描いています。
つまり「富士山」と自分の心境、思いを対比させているのです。
そして、有名な「富士には、月見草がよく似合う」の言葉が出て来るのです。
「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、
けなげにすくっと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う」
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5位。『津軽』(1944年)
太宰治の作品の中には、旧家に生れた者の暗い宿命があります。
古沼のような“家”から、どうして脱出するか。更に、自分自身から如何にして逃亡するか。
しかし、こうした運命を凝視し、懐かしく回想するような刹那が、一度、彼に訪れました。
それは昭和19年、津軽風土記の執筆を依頼され、3週間にわたって津軽を旅行した時で、
こうして生れた本書は、全作品のなかで、特異な位置を占める佳品となっています。
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6位。『ヴィヨンの妻』(1947年)
新生への希望と、戦争を経験しても、毫も変らぬ現実への絶望感との間を、揺れ動きながら、
命がけで、新しい倫理を求めようとした、晩年の文学的総決算ともいえる代表的短編集。
家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、新しい家庭への夢を、文学へと完璧に昇華させた表題作、
ほか「親友交歓」「トカトントン」「父」「母」「おさん」「家庭の幸福」「桜桃」、いずれも死の予感に彩られた作品である。
小説の題名は『ヴィヨンの妻』ですが、「ヴィヨン」という単語が、小説の中でに登場するのは、
さっちゃんが電車でポスターを見て言った「その雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。」というシーンだけなのです。
フランソワ・ヴィヨンは、15世紀のフランス詩人です。
優秀な詩人である一方、私生活は荒れに荒れていて、殺人や窃盗、売春に明け暮れた生活を送っていました。
太宰治は、そんなヴィヨンの詩に深く共感していて、
『ヴィヨンの妻』以外にも、ヴィヨンの影響を受けた作品を、発表しているのです。
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7位。『お伽草子』(1945年)
困難な戦争期にあって、深く芸術世界に沈潜することで、時代への抵抗の姿勢を堅持し、
日本文学の伝統を支えぬいた、太宰治の中期の作品から、古典や民話に取材したものを、収めたものです。
“カチカチ山”など誰もが知っている、昔話のユーモラスな口調を生かしながら、人間宿命の深淵をかいま見させた「お伽草紙」、
西鶴に題材を借り、現世に生きる、人間の裸の姿を鋭くとらえた「新釈諸国噺」ほか3編。
お伽草紙 (新潮文庫 たー2-7 新潮文庫) [ 太宰 治 ]
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8位。グッド・バイ』(1948年)
被災・疎開の極限状況から、敗戦という未曽有の経験の中で、我が身を燃焼させつつ、書きのこした後期作品16編。
太宰治、最後の境地をかいま見させる、未完の絶筆「グッド・バイ」をはじめ、
時代の転換に触発された、痛切なる告白「苦悩の年鑑」「十五年間」、戦前戦中と毫も変らない戦後の現実、
どうにもならぬ日本人への絶望を吐露した2戯曲「冬の花火」「春の枯葉」ほか「饗応夫人」「眉山」など。
グッド・バイ (新潮文庫 たー2-8 新潮文庫) [ 太宰 治 ]
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9位。『桜桃』(1948年)
『桜桃』は、わずか10ページの短編小説で、主人公は太宰作品にお馴染みの、どうしようもない男です。
太宰治は、1948年6月13日に愛人と自殺し、その遺体は太宰の誕生日である、6月19日に発見されました。
太宰が死の直前に書いた作品が『桜桃』であったため、6月19日は「桜桃忌」と名付けられました。
主人公の「私」は、子育てや家事に一切関与しない人物で、すべて妻が引き受けていました。
ある時、妻の不満が爆発し、2人は口論になってしまいます。
妻が外出するため、私は家で子供の面倒を見なくてはなりませんでしたが、私は妻と子供を残して、外に飛び出してしまいます。
家庭内の、ややこしい問題から逃げ、子守の責任を放棄したのです。
逃げた私は、馴染みの酒場に向かいました。
酒場には「女友達」がいます。私が夫婦喧嘩で逃げてきたと経緯を説明すると、彼女は桜桃を出してくれました。
「普段は子供たちに贅沢なものなど食べさせないので、もしかしたら彼らは桜桃を見たことすらないかもしれない」と私は思いました。持って帰ればさぞ喜ぶ筈です。
しかし、私は1人で黙々と食べ始めました。不味そうに食べては、種を吐き出すことの繰り返しです。
弱い自分を正当化するかのように、「子供より親が大事」と心の中で呟きました。
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10位。『右大臣実朝』(1943年)
鎌倉時代に成立した古典『吾妻鏡』を、典拠とした書き下ろし長編小説です。
金槐和歌集など、歌人としても高名な三代将軍源実朝の悲劇的な人生を、その没後20年に「私」が語る、と言う体裁をとっています。
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太宰治作品の魅力とは。
あえて言えば、太宰治は、自分の弱さを、作品でさらけ出していて、太宰ファンには、人間的な欠点を含めて魅力のようです。
太宰治には生前に、熱狂的ファンがいたものの、基本的にはマイナーな作家で、亡くなる半年前に出版された『斜陽』も、
本格的に売れ出したのは、スキャンダラスな死が、報じられた後だったのです。
読者を飛躍的に増やしたのは、1955年に筑摩書房から『太宰治全集』が刊行され、これが、予想外に売れてからだと言います。
1960年代~70年代に、個人全集が売れる作家として、漱石と肩を比べられる存在に、なって行ったのでした。
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