天正10年5月。宿敵・武田家を滅ぼした戦勝祝いとして、徳川家康を安土城に招いての祝勝会で、用意された祝賀の膳に対して、
信長は「膳が違うぞ!饗応役を解く、下がれ!」と、光秀に叫んだのでした。
天正10年5月。宿敵・武田家を滅ぼした戦勝祝いとして、徳川家康を安土城に招いての祝勝会で、用意された祝賀の膳に対して、
信長は「膳が違うぞ!饗応役を解く、下がれ!」と、光秀に叫んだのでした。
天正7年。夏。明智光秀は、ついに丹波平定に成功します。
敗戦の武将たちを前に、平穏的に城を明け渡して呉れた事と引き換えに、命までは取らないと話し、
その旨を信長に伝えるとして、敗戦の武士を信長の元に送ったのでした。
第42話の冒頭シーンでは、前週の正親町天皇の姿が、映し出され、「信長が道を間違えぬようしかと見届けよ」と語っていたのです。
これはやはり、朝廷による「光秀洗脳」があるのではと、感じさせるシーンでした。
明智光秀は、大坂本願寺、丹波と、終わりの見えない戦に追われ、丹波で苦戦していました。
そして丹波で、かろうじて勝利したのです。 続きを読む 『麒麟がくる』第41話ネタバレ名言~月にのぼる者。帝の危惧
妻を亡くした光秀の傍で、薬の調合をする次女のたま(芦田愛菜さん)の姿がありました。
そこには京の名医・東庵の助手の駒が付き添って、調合の仕方を教えていたのです。
元亀4年3月。将軍・足利義昭は、信長に対して、討伐の兵を挙げました。
その背景には、信長が渡した「十七カ条の異見書」のせいで、義昭の怒りは、頂点に達していたのです。
帝が三条西実澄に尋ねます。「実澄、気に入ったのであろう。明智を折を見て連れて来るがよい」と、
そして、三条西実澄が明智光秀に、帝に会いに一緒に京の内裏に行くかと、尋ねると、
明智光秀は「お供させて頂きます」と、返事をしたのでした。
元亀2年 秋。光秀は先の戦の功績により、信長から滋賀を与えられ、坂本城を築城しようとして、計画を立てていました。
そこに、木下藤吉郎がやって来て、織田方の中で、初めて城持ちの大名となる光秀の事を褒めた後、
藤吉郎は、信長は将軍や幕府は、もはやどうでもよく、帝や朝廷との関係ばかりを強化しようとしていること話すと、不安に駆られる光秀だったのです。
元亀2年9月。
信長は延暦寺に総攻撃を掛け、壊滅に追い込んだのでした。
その中で、比叡山延暦寺の天台座主・覚恕(春風亭小朝さん)は、難を逃れ逃走します。
元亀元年 秋 11月。
信長軍は、四方を敵に囲まれる状況で、背後を突かれる前に、比叡山を叩きたいのでしたが、
山での戦いは、上側が圧倒的に有利、さらに兵僧たちには地の利があって、とてもではないが、勝てる見込みが無かったのです。