極上のワインがあるなら、「とっておきの読書」「極上の読書」があってもいいんじゃないかと思いませんか。
飛び切りの時間に読む「極上の読書」には、どんな本が似合うでしょうか。
そんな書籍の一節を読めば、時空を超えてその時代、その空間へと誘って呉れてるものです。読書の世界に包まれてみませんか。
本は不思議なものです。
高価な本が価値あるものでもなく、古本屋の店頭に並べられた100円均一の中にも、
人生を変えて呉れる、ヒントになる本があることだってあるからです。
そして、長く読み継がれて来た本には、多くの人を引き付ける魅力があるのでしょう。
とっておきの時間に、「極上の読書」をしてみましょう。
『徒然草』吉田兼好
『おくのほそ道』松尾芭蕉
『学問のすゝめ』福沢諭吉
『遠野物語 山の人生』柳田国男
『古寺巡礼』和辻哲郎
『論語』
『舞姫』森鴎外
『こころ』夏目漱石
『銀の匙』中勘助
『蜘蛛の糸』芥川龍之介
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
『風立ちぬ・美しい村』 堀辰雄
『人間失格/グッド・バイ』太宰治
『葉桜と魔笛』太宰治
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎
『ガリア戦記』カエサル
『読書について』ショウペンハウエル
『幸福論』アラン
『プロテスタンティズムの倫理と…
『ロミオとジューリエット』
『ファウスト』ゲーテ
『徒然草』吉田兼好
『徒然草』の作者は、鎌倉時代末期に朝廷に仕えていた吉田兼好です。後に出家し、『徒然草』を書いたと言われています。
その執筆の経緯は、以前から書き溜めていた、日常生活の中で見聞した出来事について、
気の向くままに書いた原稿を、出家後にまとめたという説もあるなど、『徒然草』が完成するまでの経緯は分かっていません。
タイトルの「徒然」は、特にやるべきことがなく、手持ち無沙汰な様子を表していて、
「草」は植物ではなく、「草子(そうし、ノートのように綴じてある冊子)」のことです。
『徒然草』は、「つれづれなるままに」で有名な序段を含む、全244段で構成されていて、
各段のテーマは、人の生き方や人間関係、信仰など多岐にわたっています。
皮肉やユーモアを交えて書かれたストーリーは人間味にあふれていて、現代社会に通用する教訓的な内容も少なくありません。
ある時、高校の古文の授業で、兼好法師の『徒然草』72段を学習した時です。
そこは「賤しげなる物」の段で、
「下品に見える物は、調度品の多さ、硯に筆の多さ、持仏堂の多さ、庭の石や草木の多さ、家のなかの子・子孫の多さ、人に会った時の言葉の多さ、善行を行う方法の多さ」、
「多くても見苦しからぬは、文庫の文、塵塚の塵」
と記されていました。
現代訳だと「多くても見苦しくない物は、室内で書籍を運搬する、文車に積んだ書籍と、ゴミ捨て場のゴミ」となるようです。
何で兼好法師がゴミが見苦しく無いと、言ったかは分かりませんでしたが、
本はいくら多くても良いんだと、自分なりに解釈して、本を集めだしたのです。
新版 徒然草 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 兼好法師 ]
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『おくのほそ道』松尾芭蕉
夏草や つわものどもが 夢の跡
この句は、松尾芭蕉が平泉で5月13日(新暦6月29日)に詠んだ俳句です。
江戸を出発しておよそ1ヵ月半、平泉の高館(たかだち)に立ち、
夏草が生い茂る風景を目の当たりにして、奥州藤原氏の栄華の儚さを、芭蕉はどう思ったのでしょう。
旅に病(や)んで 夢は枯(か)れ野を かけめぐる
枯野とは、霜が降り草木もすっかり枯れ果てた、冬の野原で、寒風にさらされ荒涼とした情景は、詠む人に郷愁を誘います。
この句は亡くなる4日前に詠んだもので、芭蕉が残した生前最期の句となりました。
死の直前にあっても、旅や俳句を思う情念を素直に表現しており、辞世の句だとも言われています。
松尾芭蕉(1644~1694年)は、江戸時代の前期を生きた俳諧師です。伊賀国(現在の三重県)に生まれ、名を宗房と言いました。
松尾家は平家の末流を名乗る一族で、苗字・帯刀を許されてはいましたが、武士ではなく農民の身分でした。
13歳の時に父が死んでしまい、兄が家督を継ぎましたが、
生活は苦しく、芭蕉は伊賀国上野の侍大将の息子である、藤堂良忠に仕えることになります。
この藤堂良忠との出会いが、松尾芭蕉と俳諧とを結び付けることになったのです。
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『学問のすゝめ』福沢諭吉
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、
もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
『学問のすゝめ』の冒頭は、言わずと知れたこの名文によって始まります。
すべての人は平等で、生まれながらにして貴いとか卑しいとかいう違いはありません。
しかし世の中には、お金持ちもいれば貧しい人もいます。あるいは、地位の高い人もいれば地位の低い人もいます。
なぜ平等に生まれたはずの人間に、このような差が出来てしまうのでしょうか。
江戸時代に寺子屋の教材として使われた『実語教』には、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」という一節があります。
賢い人と愚かな人の差が出来てしまうのは、
その人がしっかり学問を学んでいるか、学んでいないかによって決まってしまうのです。
世間には、医者や学者、政府の役人、経営者などの頭を使う難しい仕事もあれば、
単純な力仕事のように、頭よりも身体を使う仕事もあります。
頭を使う難しい仕事には、どうしても学んでいる人が就くことになるため、身分は高く、収入も多くなりがちです。
一方、学問を学んでいない人には、身体を使うだけの簡単な仕事しか回って来ません。
なので、しっかりした仕事に就きたいのならば、学問を学ぶ必要があるのです。
学問を学ぶことで、身分や職業に関係なく、それぞれ自分の務めを果たし、
一人一人の独立が、一家の独立、ひいては国家の独立にも繋がっていくと説いています。
『学問のすゝめ』は、1872年(明治5年2月)に初編出版しました。
明治維新直後の日本人は、数百年変わらず続いた、封建社会と儒教思想の中にいました。
そんな国民に対して、日本が中世的な封建社会から、近代民主主義国家に新しく転換したことを諭し、
欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念を平易に説明して、
民主主義国家の主権者となるべき、自覚ある国民に意識改革することを説いています。
学問のすゝめ (岩波文庫 青102-3) [ 福沢 諭吉 ]
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『遠野物語 山の人生』柳田国男
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町町三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。
人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚し。或いは新道なるが故に民居の来たり就つける者少なきか。
遠野の城下はすなわち煙花の街なり。
『遠野物語 山の人生』の巻頭部分には、こんな一文があって、柳田国男が岩手県遠野を訪れた情景から始まります。
そして、この物語の中で、柳田国男はこんな名文を残しているのです。
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。
見過ごされている現実に光を当て、そこにある価値観に、市井の人々の足跡が残されていてることを教えて呉れているようです。
柳田国男が記した『遠野物語』は、明治43年(1910年)に発表されます。
これは岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集で、日本の民俗学の先駆けとも称される作品です。
遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、
狭義には藩政時代の旧村が、明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指し、
その地で起きたとされる出来事なども取り上げられています。
その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、あるいは祀られる神と、
それを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡っています。
遠野物語・山の人生 (岩波文庫 青138-1) [ 柳田 國男 ]
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『古寺巡礼』和辻哲郎
三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)をさほどいいものとは思っていなかった。
しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。全くそこには後光がさしているようであった。
これは、『古寺巡礼』六 浄瑠璃寺への道―浄瑠璃寺―戒壇院―戒壇院四天王―三月堂本尊―三月堂諸像の、
戒壇院から、三月堂へまわった。の一節です。
そこには以前感じられなかった、仏像の美を発見した新鮮さが表れていました。
そして、哲学者の谷川徹三はこんな言葉を残しています。
「大正7年の5月、20代の和辻哲郎は、唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺など、奈良付近の寺々に足を運んだ際に、
飛鳥・奈良の古建築・古美術に相対し、その印象を、若さと情熱をこめて書き留めた。
鋭く繊細な直観、自由な想像力の飛翔、東西両文化にわたる該博な知識が一体となった、みごとな美の世界がここにはあると」。
和辻哲郎は、西田幾多郎やハイデッガーなど、同時代の哲学者とも干渉しあいながら、
その終生をかけてした仕事は、倫理学の構築でした。
「人」ではなく、「人」と「人」の間、すなわち「人間=じんかん」の学として、倫理学を打ち立てようとしたのです。
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『論語』
子曰く、学びて思わざれば罔(くら)し。思いて学ばざれば殆(あやう)し。
〈現代語訳〉
先生は言われた。読書や先生から学ぶだけで、自分で考えることを怠ると、知識が身につかない。しかし、考えることばかりで読書を怠ると、独断的になって危険である。
子曰く、学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐れよ。
〈現代語訳〉
先生が言われた。まだまだ自分は十分ではないという思いを持ち続けるのが学ぶということだ。のみならず、学んだことは失わないよう注意しなさい。
『論語』とは、孔子と彼の高弟の言行を、孔子の死後に弟子達が記録した書物です。
『孟子』『大学』『中庸』と併せて、朱子学における「四書」の1つに数えられています。
紀元前5世紀頃、中国の思想家であり、
儒教の祖である孔子の言行を、孔子の死後に弟子たちが編纂した『論語』は、孔子自身が執筆したものではありません。
今に伝わる論語が編纂されたのは、孔子の死後、かなり時間が経ってのことでした。
そして、『論語』は、『孟子』『大学』『中庸』とともに儒教における「四書」の一つに数えられていて、
官僚の登用試験である、科挙の出題科目になるなど、中国思想の根幹をなしていたのです。
眠れなくなるほど面白い 図解 論語 時を超えた珠玉の名言 人生を彩る孔子の教え [ 山口 謠司 ]
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『舞姫』森鴎外
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒なり。
今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌(かるた)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。」
《現代語訳〉
「石炭を早くも積み終えた。中等室の机のあたりはたいへん静かで、電燈の光が晴ればれとしているのもむなしい。
今夜は、毎晩ここに集まってくるカルタ仲間も「ホテル」に宿泊しており、船内に残っているのは私ひとりのみだからだ。」
主人公の太田豊太郎は、イタリアのブリンヂイシイの港で乗船し、日本に向かう客船内にいました。
当時ヨーロッパ航路と言うのは、東南アジア、インド、スエズ運河を経由し、地中海へ抜けて行きました。帰りはその逆です。
帰路ではサイゴンを出ると、次は日本の横浜です。つまり、もしもう一度、ヨーロッパのエリスの元へ帰りたいと思ったら、
サイゴンで下りて、ヨーロッパ行きの船へ乗り換えればよいのですから、ここが最後のチャンスだったのです。
しかし主人公はそうしませんでした。
そして、石炭が積み終わります。いよいよ出港です。
船から下りない、と言う決断を主人公は、愛したエリスとの、最後の別れだと言う意味だったのです。
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【関連】
『こころ』夏目漱石
私(わたくし)は其人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書く丈で本名は打ち明けない。
是は世間を憚かる遠慮というよりも、其方が私にとって自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。
筆をとっても心得は同じ事である。余所々々しい頭文字抔(など)はとても使う気にならない。
私が先生と知り合になったのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であった。
主人公の私が、暑中休暇を利用して海水浴に行った鎌倉で、先生に出会い、物語が始まります。
先生と言っても、単に主人公の私が、そう呼んでいるだけであって、実際は海で偶然に出会った無職の人でした。
最初は出会った海で、世間話をする程度の仲でしたが、
徐々に主人公の私は、先生だけではなく先生の奥さんとも、交流を深めて行くことになったのです。
先生は近づきがたい雰囲気を放っていましたが、主人公の私は、先生の学問の知識や思想に惹かれ、
月2~3回ほど、家を訪ねるようになり、次第に先生に傾倒して行ったのです。
そして私は、先生の心の闇を知ることになるのでした。
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【関連】
夏目漱石『こころ』精神的に向上心のないものは馬鹿だ。
『銀の匙』中勘助
そら豆の葉をすうと 雨蛙の腹みたいにふくれるのが おもしろくて畑のをちぎってはしかられた。山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば 篳篥ににた音がする。
忘れられていたこの小さな匙は、病弱だった私の口に薬を入れるため、伯母さんがどこからか探してきたものでした。
その愛情に包まれた幼少期、初めての友達・お国さんとの平和な日々、
腕白坊主達が待つ小学校への入学、隣に引っ越してきたおけいちゃんに対する淡い恋心、
そして、少年から青年に成長するまでを、細やかに回想する自伝的作品です。
中勘助は、明治18年に東京神田で生れ。一高をへて東京帝国大学英文科入学、その後、国文科に転じます。
高校、大学時代に、漱石の教えを受けました。
信州野尻湖畔で孤高の生活を送っていましたが、父の死と兄の重病という家族の危機に瀕し、
1912年、処女作『銀の匙』を執筆、漱石の強い推薦で「東京朝日新聞」に連載されたのです。
どこをとっても美しい文章で、語り手である主人公が見た、繊細な美の世界を描いる、中勘助の自伝的小説です。
純粋な少年が自らの感性、信じる美のため、しなやかに強く生きてゆく、その語り手の姿勢が美しい文章に表れています。
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【関連】
『蜘蛛の糸』芥川龍之介
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございましょう。
ある朝、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していると、
はるか下には地獄があり、犍陀多(かんだた)と言う男が、血の池で、もがいているのが見えます。
犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒。しかしそんな彼でも、一度だけ良いことをしていたのです。
道端の小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやった事でした。
そのことを思い出したお釈迦さまは、彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らします。
血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸が、するすると垂れて来ました。
これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで、一生懸命に上へ上へと登るのでした。
地獄と極楽との間には、とてつもない距離があるため、登ることに疲れた犍陀多は、糸の途中にぶらさがって休憩します。
しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり、
蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいて来るではありませんか。
このままでは、重みに耐えきれずに、蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだのです。
すると突然、蜘蛛の糸は、犍陀多がいる部分で、ぷつりと切れてしまい、
彼は罪人たちと一緒に、暗闇へと、まっさかさまに落ちていったのです。
一部始終を、上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去りました。
時刻は昼になろうとしていたのです。
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【関連】
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
一 午後の授業
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。
『銀河鉄道の夜』は、詩人で童話作家の宮沢賢治の作品の中でも、もっとも有名な代表作の一つで、
初稿を書いたのが1924年で、晩年まで推敲が行われていました。
作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとして、
イーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られています。
『銀河鉄道の夜』は、少年ジョバンニが主人公の童話です。
主人公のジョバンニは孤独な少年で、病気の母を看病しながら、
学校の授業が終わると、放課後に活版印刷所に行き、そこでアルバイトをしています。
父親は漁に行ったきり、戻ってきません。
らっこを密漁し、投獄されていると噂され、そのことでジョバンニは同級生にからかわれます。
しかし、親友のカムパネルラだけは違いました。
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【関連】
『風立ちぬ・美しい村』 堀辰雄
『風立ちぬ』は、堀辰雄の中編小説で、作者本人の実体験をもとに、執筆された堀辰雄の代表的作品で、
「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から構成されています。
美しい自然に囲まれた高原の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて来る愛する者の死を覚悟し、
それを見つめながら、2人の限られた日々を「生」を強く意識して共に生きる物語です。
死と生の意味を問いながら、時間を超越した生と幸福感が確立してゆく過程を描いた作品です。
作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」と言う有名な詩句は、作品冒頭に掲げられているポール・ヴァレリーの詩、
『海辺の墓地』の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」を堀辰雄が訳したものです。
【関連】
『美しい村』は、堀辰雄の中編小説で、『聖家族』に次ぐ堀辰雄の初期の代表的作品です。
「序曲」「美しい村 或は 小遁走曲」「夏」「暗い道」の4章から成り、
「夏」の章において、のちの『風立ちぬ』のヒロインとなる少女が登場します。
まだ夏早い、軽井沢の高原の村を訪れた傷心の小説家の「私」が、1人そこに滞在しながら、
村で出会った事を徒然に書き記してゆきす。
野薔薇や村人を題材に、牧歌的な物語の構想を描いていた「私」の目の前に、
転調のように突然と現れた、向日葵の少女への愛を育むうちに、
生を回復してゆく過程が、バッハの遁走曲のような音楽的構成と、プルーストの影響による文体で描かれています。
風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子 (角川文庫) [ 堀 辰雄 ]
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【関連】
『人間失格/グッド・バイ』太宰治
『人間失格』は、「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から、男の手記は始まります。
男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだすのです。
でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのでした。
「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。
人が生きる意味を問う、太宰治の捨て身の作品です。
『グッド・バイ』は、被災・疎開の極限状況から、
敗戦という未曽有の経験の中で、我が身を燃焼させつつ、書きのこした後期作品16編です。
太宰治、最後の境地をかいま見させる、未完の絶筆「グッド・バイ」をはじめ、
時代の転換に触発された、痛切なる告白「苦悩の年鑑」「十五年間」、戦前戦中と毫も変らない戦後の現実、
どうにもならぬ日本人への絶望を吐露した2戯曲「冬の花火」「春の枯葉」ほか「饗応夫人」「眉山」などを収めています。
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【関連】
『葉桜と魔笛』太宰治
「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。 」
これは、太宰治の『葉桜と魔笛』の冒頭部分です。
余命わずか百日と宣告された、18歳の美しい妹には秘密の文通相手がいました。
妹たちの恋愛は、心だけのものではなかったのです。
しかしそのM・Tというイニシャルの男性は、妹の病気を知ると手紙を寄こさなくなってしまいます。
やがて死の迫った妹の病床に、M・Tというイニシャルの男性からの手紙が届きます。
それは今までに無かったような愛情に溢れた手紙で、妹を励ますものでした。しかしその手紙は姉の「私」がM・Tになりすまし妹に宛てて書いた手紙でした。
別れを告げたことを心から後悔し、これからは毎日歌を作って送ると書きました。
それから毎日晩の六時に、庭の塀の外から口笛で軍艦マーチを吹いてあげると書いたのです。
美しい姉妹の愛情溢れる物語です。
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【抽出】
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎
「コペル君、君の考えは間違っているぞ、君は勇気を出せずに、大事な約束を破ってしまった。
苦しい思いをしたから、許してもらおうなんて、そんなこと言える資格はない筈だ。」
「コペル君、いま君は、大きな苦しみを感じている。なぜ、それほど苦しまなければならないのか。
それは、君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。」
『君たちはどう生きるか』では、主人公のコペル君は、いじめに遭っているクラスメートと共に戦おうと、自分から宣言します。
しかし、仕返しの怖さから、クラスメートたちを裏切って、自分ひとり隠れてしまいました。
その自責の念から、「自分がこんな卑怯な人間だったとは、死にたいー」と悩み、
その仲裁を、おじさんに頼もうとしたのです。
そんな彼に、おじさんが言ったのが上記の言葉です。
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は、1937年(昭和12年)に発行された、「子供のための哲学書」のような本です。
著者の吉野源三郎は、月刊誌『世界』の初代編集長を務めた人です。
この本が刊行された、昭和12年という時代は、日本が第二次世界大戦に突入してゆく、2年前だったと言う時代背景がありました。
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【関連】
『ガリア戦記』カエサル
ガリアは大きく三つの地域に分かれている。一つめがベルギー人の住む地域、二つめがアキテーヌ人の住む地域、三つめが当地の言葉でケルト人の住む地域である。
このケルト人のことを我々はガリア人と呼んでいるのである。
三つの民族はそれぞれに異なった言語、習慣、法律をもっている。
これは『ガリア戦記』の冒頭部分です。
実質的な初代ローマ皇帝、ユリウス・カエサルが、現代のフランスへ未開人討伐を成し遂げた際の、記録をまとめたガリア戦記。
『ガリア戦記』は、共和政ローマ期の政治家・軍人のガイウス・ユリウス・カエサルが自らの手で書き記した、
「ガリア戦争」の遠征記録です。
続篇として、ルビコン渡河以降の「ローマ内戦」を記録した『内乱記』があります。
そして、モンテーニュやナポレオンなども、後に『ガリア戦記』を愛読書としたことで有名です。
「ルビコン川を渡る」と言う言葉がありますが、
これは、後戻りのできないような、重大な決断や行動をすることの、喩えを言います。
これは死を覚悟して渡ると言う、「後には引けない」ほどの「重大な決断・行動」だと言うことです。
この言葉の由来や意味は、古代ローマ時代のカエサル(シーザー)が、このルビコン川を渡る時の背景に起源があるのです。
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【関連】
シーザー(カエサル)の「ルビコン川を渡る」の覚悟の意味は?
『読書について』ショウペンハウエル
本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、
他人の考えがどんどん流れ込んでくる。
自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、
決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはない。
読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。
これは、ドイツの哲学者の、ショウペンハウエル(1788-1860)の『読書について』の中の言葉です。
この本は、「思索」「著作と文体」「読書について」の3つの章から構成されていて、
ショウペンハウエルはこの中で、「もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る」と記しています。
この言葉から分かるように、
書物などからいかに知識を得たとしても、最後は自分の考えをしっかり持っていることが大切だとしていて、
「すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべき」
と諭しているのです。
読書について 他二篇 (岩波文庫 青632-2) [ ショウペンハウエル,A. ]
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『幸福論』アラン
ヒルティの『幸福論』1891年、アランの『幸福論』1925年、ラッセルの『幸福論』1930年です。
どれを読んだら、より幸福に近づくことが出来るのか、そんな邪念を抱いてしまいそうな、「幸福論」の多さです。
アランは、フランスのノルマンディー出身の哲学者、著述家、評論家で、モラリストです。
アランは『幸福論』で、何を言いたかったのでしょう。
概略で言うと、
「幸福になろうとしないと、幸福にはなれない。そして、それは心と体の使い方で決まる。」と、言うことらしいのです。
そしてアランは、「気分と言うものは、いつも悪いもので、幸福になるためには、コントロールが必要だ」と、言うのです。
感情や、情念に振り回されないようにしたり、愚痴を言ってはいけないと言っています。
不機嫌な状態では、精神的なものよりも、体に変調を来たすとしました。
自分自身と喧嘩をしないように、上機嫌を生活の第一に考えて、ポジティブシンキングで、幸福になる努力をする事だと言います。
そして、「幸せにはキリがない」とまで、言っています。
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【関連】
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー
宗教とお金や経済に関連性があるなんて、信じられるでしょうか。
そんな考察をした人が、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバー(1864年~1920年)です。
彼の著書、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、宗教とお金の関係性について、興味深い考察をしています。
どうやらこんな説があるようなのです。
ヨーロッパで、キリスト教のプロテスタント信仰国は経済発展している一方で、
カトリックやギリシャ正教会の信仰国は、あまり経済発展をしていないと言うのです。
つまり、資本主義経済に、宗教的な価値観の影響が、あるのではと問うているのです。
話はさかのぼりますが、「宗教改革」の頃、
当時カトリックであったローマ教皇は、免罪符を売っていて、
それを人々が買う事によって救われ、天国に行けると言う、善行を説いていたようです。
この善行で集まったお金で、贅沢で豪華な教会を作つたようで、その代表格が、サンピエトロ大聖堂だと言われています。
一方、プロテスタント、特にカルヴァン派の司教の間では、
「救いの証し」とされる「神の栄光」は、有益な職業労働から生まれると信じられていました。
禁欲を旨とするプロテスタントでは、楽しみは徹底的に否定され、働いたお金は貯められ、資本の蓄積が行われました。
その資本を再活用して、経済の拡大が行われたようです。
その背景には、プロテスタントの「予定説」と言う考え方があって、
そもそも、天国に行けるか行けないかは、生まれた時から、既に決まっていると言うのです。
それなので、たくさん稼いで、教会に善行をしても、未来は決まっていると言います。
それなら、「救いの証し」とされる、有益な職業労働に救いを求め、
禁欲の教えを守りながら、有益な職業労働をした結果、お金、つまり資本が貯まって行ったのです。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (Nikkei BP classics) [ マックス・ヴェーバー ]
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【関連】
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
『ロミオとジューリエット』シェ―クスピア
シェークスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台となったのは、イタリア北部の町「ヴェローナ」です。
ヴェローナで対立する名家、キャピュレット家と、モンタギュー家に生まれた二人の、
困難に満ちた、恋を描いた悲劇の舞台になった町です。
シェークスピアの四大悲劇と言えば、
『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』ですが、『ロミオとジュリエット』も悲劇的な結末を迎えます。
『ロミオとジュリエット』の初演は1595年前後、舞台は14世紀のヴェローナ。
ヴェローナにある、カプレーティ家の娘、
イタリア語読みだと、ジュリエッタの家だそうで、そこには、あの有名なバルコニーがあるそうです。
しかし、そのバルコニーは、観光客の要望に応えて、後から取り付けられたものらしいのです。
やはり、ジュリエットの部屋には、バルコニーが付いていないと、観光客も納得しなかったんでしょう。
『ロミオとジュリエット』の影響を受けて、『ウエストサイド物語』が誕生しました。
1968年公開の映画『ロミオとジュリエット』では、オリビア・ハッセーの美しさと、透明感は、世界中を虜にしました。
1996年の「ロミオ+ジュリエット」の、レオナルドディカプリオは素晴らしかった。
ロミオとジュリエット改版 (新潮文庫) [ ウィリアム・シェイクスピア ]
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【関連】
『ファウスト』ゲーテ
ゲーテの『ファウスト』は、15世紀から16世紀頃のドイツに実在したと言われる、
高名な錬金術師ドクトル・ファウストゥスの伝説を下敷きとして、ゲーテが、ほぼその生涯を掛けて完成させた大作です。
ファウスト博士は、錬金術や占星術を使う黒魔術師であるとの噂に包まれ、
悪魔と契約して、最後には魂を奪われ体を四散されたと云う奇怪な伝説、風聞が囁かれていました。
ゲーテは子供の頃、旅回り一座の人形劇「ファウスト博士」を観たようで、
若い頃からこの伝承に、並々ならぬ興味を抱いていたのです。
ゲーテは、こうした様々なファウスト伝説に取材し、彼を主人公とする長大な戯曲を書き上げたのです。
『ファウスト』の戯曲は、善と悪、人間の罪と欲望、神と信仰などがテーマで、人間の永遠の課題と言うべきものでしょう。
「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」の台詞の意味は、
最期の時を迎えた主人公ファウストは、「契約」を結んだ悪魔メフィストフェレスが、
彼の死体を埋葬するための音を、領地を切り開く道具の音と思い違いして、
人々の幸福のための貢献が出来たと、その喜びから口にしてしまいます。
「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」と、人生の最高に素晴らしいこの瞬間が、
永遠に留まれとの願いから、言葉にしてしまったのです。
ファウスト 悲劇第一部 (中公文庫 ケ1-4) [ ゲーテ ]
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