人生で迷った時や、助言を欲しい時に、偉人たちの名言や格言は、心に刺さり人生を進む羅針盤になることもあります。
そんな偉人たちの言葉に思いを馳せることで、進むべき道が見えたり、方向を是正して呉れるかもしれません。
人は迷うものです。そんな時に読み返してみてはいかがでしょうか。人生とは迷いながら進むものかもしれません。
《目次》 56選。
守りたいものが、自分を成長させる
誰もがその収入を公表はしない
お金なんてどうでもいいんだ
収入は靴のようなものだ。
金儲けのうまい人は無一文になっても
潮が引いて初めて、誰が裸で泳い…
明日を一度も見たことがない
楽しみに金の掛からない人が最も裕福
金は借りてもならず、貸してもならず
長所を発揮すると短所は消滅する。
勇気と想像力そして少しのお金
すべては一匹のネズミから始まった
一番影響を受けた本は預金通帳?
貯金の秘訣は貯金した残りを使うこと
節約せずに誰も金持ちになれない
時は金なり 「Time is money」
ぼくはイエローでホワイトでちょっと
未来は今日始まる。明日始まるのでは
壁と言うものは、出来る人にしか…
PKを外すことが出来るのは、PKを
大切なものは、目に見えないからね。
笑っているから、幸福なのだ。
最大のピンチの後には最高のチャンス
人間に必要なのは困る事だ。
人生という本は、後ろの方に、答えが
配られたカードで勝負するっきゃない
散歩のついでに富士山に登った人は…
こけたら立ちなはれ
失敗することを恐れるよりも、真剣で
やってみなはれ
金がないから何もできないという人間
パリは移動祝祭日だからだ!
読書っていうのは冒険の一種なんだ
書物そのものは、君に幸福をもたら…
読書は人を聡明にしない。
ドンキホーテは読書によって紳士に…
図書館と古本屋さんさえあれば、…
人間はいくつになっても可能性がある
人生はどちらかです。勇気をもって…
数えきれないほど、悔しい思いをし…
月が綺麗ですね
チャンスはとにかく自分のものにする
僕もお父さんたちの気持ちがわかった
近江商人の「三方よし」
愛っていうのは、わかちあうものなの
自分の失敗を語るのに躊躇はしない。
努力すれば報われる?そうじゃない…
成功は偶然の出来事ではない。
どうして笑うんだい?彼のポルトガル語
俺が蹴るからゴールがあるんだ
人生はサッカーでありサッカーこそ人生
本は読み終わったら、すぐに処分します
それは君が正しい道に向かおうとして…
企業の目的は、顧客を創造すること。
未来のことは分からない未来は現在とは
組織に成果をあげるマネージャーの力
「守りたいもの」が、自分を成長させる。
20世紀初頭にアメリカで出版され、多くの成功者を生み出した、不朽の名著『バビロンの大富豪』は“元祖・お金のベストセラー”とも言うべき作品です。
古代の寓話を元に、堅実な利殖と倹約の大切さを説き、多くの人々に、世界大恐慌後の、生き残りの道筋を示しました。
古代バビロニアの首都、バビロンで暮らしていた、貧乏な武器屋バンシルは「どうして自分は貧乏なのか?」「どうやったらお金持ちになれるのか?」と、
その答えを知るために、バビロンで一番の大金持ちアルカドに聞きに行きます。
アルカドはバンシルを見て、可能性を感じ、その答えを話すことにしました。
アルカドは「黄金を生み出す5つの法則」を授け、金貨を2倍にするまで、バビロンに戻って来てはいけないと言う、厳しい試練を与えたのでした。
そして、それ以上に、お金を増やすのに必要なことは「守りたいもの」を持てと言うことでした。
「守りたいもの」が自分を成長させて呉れる礎となるからです。
守るべき存在は、自分を強くして呉れるものなのです。そして、それがあれば、何度も戦えると言うのです。
バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか [ ジョージ・S.クレイソン ]
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【抽出】
「誰もがその収入を公表はしない。ただ収入によって得たものを、見せびらかすだけである。」
これは、16世紀のフランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュの言葉です。彼は、ボルドーに近いモンテーニュ城で、1533年に生まれました。
ミシェル・ド・モンテーニュは、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者、モラリスト、懐疑論者、人間主義者です。
現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求した主著『エセー』(随想録)は、各国に影響を与えました。
『エセー』(随想録)は、フランスのモラリスト文学の、基礎を築いたと評されています。
人は何と顕示欲の強いものなのでしょう。だから、モンテーニュは、人間の醜い本質を付いた言葉として語ったのでしょう。
そして、人間の顕示欲の強さは、いつの時代でも不変的なことなのです。
モンテーニュ エセー抄 新装版 [ ミシェル・E・ド・モンテーニュ ]
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【抽出】
「僕の人生において、お金なんてどうでもいいんだ。」
彼はアメリカ合衆国の映画監督で、映画プロデューサーで、多くの映画作品を生み出しました。
1946年にオハイオ州のシンシナティで、ウクライナ系のユダヤ人の家庭で生まれ、アリゾナで育ったのです。
父親は電気技師、母親はピアニストで、後にレストラン経営をします。ユダヤ人であった他に、ディスレクシア(失読症もしくは難読症)のため、
同級生より、読み書きの習得スピードが遅かったことで、いじめを受けたこともあったようです。
また、両親が離婚したことで、これらのことが、後の作品に、大きな影響を及ぼすことになるのです。
そして、スティーブン・スピルバーグの作品に於いて、ディズニー映画は、初期の作品に様々な影響を与えているようで、
彼自身も雑誌のインタビューで、こう語っています。
「ウォルト・ディズニーこそ、僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」。
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【抽出】
「収入は靴のようなものだ。小さ過ぎれば我々を締め付け煩わしい。大き過ぎればつまずきや、踏み外しの原因となるのだ。」
これは17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックの言葉です。ジョン・ロック(1633~1704)は、イギリス経験論の父と呼ばれた人物です。
主著に『人間悟性論』に於いて、経験論的認識を体系化しました。
人の収入は、その人の身の丈に合った収入でないと、上手くいかないのではないでしょうか。
身の丈に合わない収入は、その人を疲弊させるかもしれません。
いつの時代でも、お金はその人の力量、身の丈に合ったものでないと、負担になってしまうのかもしれません。
だから、ジョン・ロックは、小さい靴は履けないし、大きい靴も危なくて履けないと言っているのです。
お金はその人の力量に比例し、程々が丁度良いと、言っているんじゃないでしょうか。
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【抽出】
「いわゆる、金儲けのうまい人は、無一文になっても、自分自身という財産を、まだ持っている。」
これは、フランスのノルマンディー出身の哲学者、著述家、評論家で、モラリストのアランの言葉です。
彼はフランスの高等師範学校を卒業し、フランスの後期中等教育機関『リセ』(日本の高等学校に相当)の教師になりました。
教師時代にアランの名で、「デペーシュ・ド・ルーマン紙」に、週一回のペースでコラムを寄稿し、教師退職後も執筆活動を続け、文学や美学、教育、政治に関する内容を、
エッセイ形式のコラムを寄稿、これにより、名声を博したのです。そして、彼は『幸福論』を1925年に出版したのです。
人生で最大の財産は、自分自身ではないでしょうか。
余程の資産家の元で生まれない限り、人の人生は教育や知識、技能を身に付けながら、資産を作り始めるものです。
自分と言う財産を、しっかり持っている人であれば、思わぬの出来事で、地位や財産を、無くしても、また、復活出来る力を持っているのです。
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【抽出】
「潮が引いて初めて、誰が裸で泳いでいたかが分かる。」
これは「投資の神様」と言われる、ウォーレン・バフェットの言葉です。
彼はネブラスカ州で生まれ、1958年に地元オハマ郊外に、3万ドル(約320万円)で購入した家に、今も住み続けています。
明るく謙虚な人柄から、尊敬の念を込め「オハマの賢人」と呼ばれています。
彼はアルバイトで作った資金を元手に、たった一代で莫大な資産を築き上げました。
2020年のフォーブス世界の大富豪ランキングの第4位で、自らが経営する投資会社、バークシャー ハサウェイのCEOで、総資産735億ドル の資産を保持しています。
彼は成長性のある会社に目を付け、誰もが知っているコカ・コーラなどアメリカを代表する企業の株を長く保有する事で、莫大な資産を手に入れたのです。
また、自分が分からない分野の企業には手を出さないとして、IT関連株には手を出さず、
その後に起きた、ITバブル崩壊の影響を受けなかった話は有名です。
株が暴落している時は、とても買える状態ではないですが、そんな時こそ、優良株を安く買う絶好のチャンスだと言っているのです。
史上最強の投資家バフェットの教訓 逆風の時でもお金を増やす125の知恵 [ メアリー・バフェット ]
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【抽出】
「私は明日を一度も見たことがない。私にあるのは今日だけだ。今日は勝者のための言葉で、明日は敗者のための言葉だ。」
この言葉は、ロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』の中で、金持ち父さんが言っている言葉です。
『金持ち父さん貧乏父さん』シリーズは、世界51ヵ国語に翻訳され、日本で300万部、全世界で2800万部も、発行されています。
ロバート・キヨサキは、1947年アメリカのハワイ州生まれの日系四世で、著書の中で、ラットレースから抜け出し、お金の自由を手に入れる方法を伝えています。
金持ち父さんが言いたかったことは、如何にして、経済的自由を手に入れて早く引退出来るには、何をなすべきかと言う事です。
真面目で勤勉に働いているだけでは、何故、資産を増やす事が出来ないのか。
それは、レバレッジを使った行動を、していないからだと言っています。
そして、明日を夢見るのではなく、今日と言う日をしっかり生きることが、明日に繋がるのだと教えているのです。
改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学 [ ロバート・キヨサキ ]
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【抽出】
「楽しみに金の掛からない人が、最も裕福である」
これは、アメリカの作家、詩人、思想家、博物学者のヘンリー・ディヴィット・ソローの言葉です。
彼は、1817年に、マサチューセッツ州コンコード市で生まれ、ハーバード大学を卒業しましたが、生涯を通じて定職に付かなかったようです。
そんな彼が、27歳の時に、ウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を、2年2ヵ月送りました。
その経験を生かして、代表作『ウォールデン森の生活』を、1854年、彼が37歳の時に出版しました。
その著書は、自然や湖、動物などの描写の他に、人間の精神、哲学、社会環境など、幅広く言及しており、後の時代の詩人や作家に、大きな影響を与えました。
ソローの作品は、人間と自然をテーマにしたものが多く、ネイチャーライティングの系譜に属し、
アメリカに於ける、環境保護運動の先駆者となり、アウトドアの愛好家などから慕われています。
ソロー『森の生活』を漫画で読む シンプルに暮らそう! [ ヘンリ・デーヴィド・ソロー ]
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「金は借りてもならず、貸してもならない。貸せば金を失うし、友も失う。借りれば節約が馬鹿らしくなる。」
これはウイリアム・シェークスピアの言葉です。彼は16世紀~17世紀を代表する、イングランドの劇作家で詩人です。
彼の四大悲劇「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」は、今から400年前に書かれたものですが、今でも人の心を打つ名作です。
ちなみに、シェークスピアを日本の漢字表記で表すと「沙吉比亜」となるようです。何だか別人のようですね。
彼は、イングランドのストラトフォードの、自然豊かな土地で生まれました。父親は、皮手袋商人で成功したようで、市会議員でもあったようです。
そんなシェークスピアは、ロンドンに進出し、演劇の世界に身を置くようになり、
俳優で活動する傍ら、脚本も書くようになって行き、劇作家の道を歩むことになったのです。
シェイクスピア名作コレクション(全10巻セット) [ ウィリアム・シェイクスピア ]
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「長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。」
彼は1840年、武蔵国(現在の埼玉県深谷市)の、豪農の長男として生まれ、25歳で一橋慶喜に仕え、
28歳でパリ万国博覧会の視察としてフランスに渡り、その経済発展に驚いたのです。
30歳で大隅重信に説得され、明治新政府に仕えたようです。
34歳で、国立第一銀行を開業させ、62歳の時に、日本女子大学校を開校させました。
彼は500余りの会社の設立を手掛け、600以上の慈善事業を、手掛けたと言います。
彼はすごい勢いで事業を実現させて、日本の近代化を、牽引しています。彼は公益のために、仕事をしなければならないとして、
自分と他者の利益を、調和させる考え方として「道徳経済合一致」を掲げました。
この言葉は、自分の強みを生かして、自分を発揮出来れば、自信が持てるようになることから、
自分の長所を生かす事は、成功への一番の近道だと言いたかったのでしょう。
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「人生は恐れなければ、とても素晴らしいもんだよ。人生に必要なもの。それは、勇気と想像力そして少しのお金だ。」
これはチャップリンの言葉で、彼はロンドン出身の映画俳優、映画監督、脚本家で、サイレント映画時代のスーパースターで「喜劇王」と呼ばれました。
代表作である「街の灯」「モダンタイムス」「独裁者」「ライムライト」などは、知らない人はいないでしょう。
ここで言う「少しのお金」Some moneyと言う言葉は、多くのマネー雑誌や、お金にまつわる書籍の中で、たびたび引用されています。
彼の言う、人生に必要なもの、勇気と想像力とサムマネー。この意味は、何だったんでしょうか。
1952年に、あの有名な映画「ライムライト」が完成しました。
この中で、希望を無くした踊り子に、チャップリン演じる、失意のコメディアンが、人生について語るのです。
チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々 (新潮文庫) [ チャールズ・チャップリン ]
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【抽出】
「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現出来る。いつだって忘れないで欲しい、すべては一匹のネズミから始まったという事を」
これは、ウォルト・ディズニーの言葉です。彼は1901年2月にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれました。
兄のロイ・ディズニーと共同で設立した「ウォルトディズニーカンパニー」は、数々の倒産と失敗を繰り返しながらも、彼らは夢の世界を、追い続けました。
そんな彼らが追い求めた、「ウォルトディズニーカンパニー」は、今では、総資産985億ドル(2018.09期)の巨大企業となり、
更に多くの企業を買収し続け、更に、成長し続けています。
ウォルトディズニーは、それまでの遊園地に来ている大人たちが、あまり楽しんでいる様子が無い事に気が付き、
大人も楽しめる遊園地を、作りたいと思ったそうで、デンマークのチボリ公園を参考に、
子供から大人まで、誰もが楽しめる夢の空間にしたいと考え、建設を目指したと言われています。
くまのプーさん 心が変わる「論語」 (角川文庫) [ ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 ]
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【抽出】
【人生の名言】ウォルトディズニーは夢を実現し、投資家にも夢を与えた。
A「あなたが一番影響を受けた本は何ですか」B「銀行の預金通帳だよ」
この言葉は、アイルランド、ダブリン出身の劇作家・文学者・脚本家・評論家で、ノーベル文学賞受賞者のバーナード・ショーの言葉で、彼はベジタリアンでした。
彼の功績の中でも、特に文学者と教育家としての活躍が有名で、イギリス近代演劇の確立者として、精力的に作品を書き続けました。
皮肉屋のバーナード・ショーらしい言葉で、
言われてみれば、預金通帳以上に人生にとって、影響力ある、読み物はあるのかと、考えさせられる表現です。
「お金を貯める秘訣は、預金通帳を記帳することにあり」とでもバーナード・ショーが言っているようにも思えます。
人生で一番、影響力ある読み物であれば、預金通帳の行間をもっと、じっくり見なければ、ならないのかもしれません。
ピグマリオン (光文社古典新訳文庫) [ バーナード・ショー ]
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【抽出】
「お金で成功する秘訣は、使った残りを貯金するのではなく、貯金した残りを使うことである」
これは、アメリカの不動産投資家で、ビジネス作家としても活躍した、ロバート・アレンの言葉です。
彼の代表作は「ワンミニッツ・ミリオネア」「億万長者入門」「大富豪への道」などであり、お金に興味のある方は、お読みになった事があるかもしれません。
貯金はしたいけれど、なかなか、貯まらなくて、来月からこそ絶対に貯めようとしても、また使ってしまいます。
ロバート・アレンのこの言葉は、人は弱いもので、なかなか、お金の誘惑に勝つことが出来ないので、
なるべくなら、お金の顔を見ないで貯金をしましょう。と言う事になるんじゃないでしょうか。
ロバート・アレンの実践億万長者入門 ― 生涯続く無限の富を得る方法 単行本
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【抽出】
「節約せずに誰も金持ちになれない、そして、節約する者で貧しい者はいない。」
この言葉は、18世紀イギリスの文学者で、英語辞典の編纂をした、サミュエル・ジョンソンの言葉です。
お金を貯めるために、節約をしていますか。でも、なかなか貯まりません。
何でこんなに欲しいものが、 世の中にたくさんあるんだろうと、思った事ありませんか。
そんな中でも、節約は今日からでも、自分が決断すれば始められます。
たとえ収入が当面増えない状況でも、身の丈に合った生活をして、節約すれば貯蓄のチャンスはやって来ます。
貯蓄の目安は、収入の20%ぐらいが限度とよく言われています。 ご自分の将来のためです。この限度に挑戦しませんか。
お金持ちの多くは、メリハリのあるお金の使い方を上手にしているようです。
きみを変える50の名言 イチロー、樹木希林ほか [ 佐久間博 ]
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【抽出】
「時は金なり」「Time is money」
1日が短く、1週間が瞬く間で、1年があっという間に過ぎ去って行きます。
そして、時間は誰にでも平等に与えられるものですが、その使い方次第で大きな差がつきます。だから有限の時間を如何に使うかで、その人の器量が別れるのです。
この言葉はアメリカ合衆国、建国の父の一人と言われた、ベンジャミン・フランクリンの言葉と言われています。
彼は100ドル紙幣の肖像にも、描かれていて、政治家、作家、物理学者でもあったようです。
この言葉の意味は「時間はお金と同じように貴重なもので、浪費する事なく、有意義に使ってこそ価値がある。」と言う事でしょう。
時間を浪費する事は、どれだけ、人生を無駄に過ごしてしまうのか、そんな、浪費する人生を送って良いのかと、戒めています。
ベンジャミンフランクリン 富に至る道 [ ベンジャミン・フランクリン ]
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【抽出】
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
The Real British Secondary School Days.は、2019年の『本屋大賞』ノンフィクション本で大賞受賞しました。
著者のブレイディみかこさんのご家族は、アイルランド人の夫と、息子さんが一人います。
配偶者の夫は、ロンドンの金融街シティにある、銀行に勤めていましたが、
数年後にリストラされると、子供の頃から、やりたいと思っていた、大型ダンプの運転手に転職しました。
日本人の母と、アイルランド人の父の間に生まれた息子さんは、自分のアイデンティティが、日本なのか、イギリスなのかに悩みながら、思春期を迎えたのでした。
そしてある日、ブレイディみかこさんは、息子さんの部屋にある、机の上の国語のノートの、落書きが目に入ったのです。
青い色のペンで、ノートの端に、小さく体をすぼめて、息を潜めているような筆跡で、
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」と記されていたのです。
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー [ ブレイディ みかこ ]
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【抽出】
「未来は今日始まる。明日始まるのではない。」
ヨハネ・パウロ二世の言葉です。彼はローマ教皇で1920年~2005年を生きた人です。
カトリック教会の聖人で、1978年~2005年まで、教皇を務めました。
人は面倒なことを先延ばしにする傾向があります。明日からダイエットを始めよう。
明日からレッスンを再開しよう。明日からお酒を控えよう。何故、今日から始めようと思わないのでしょうか。
だから仕事を与えられると、明日から頑張ろうと思っていました。今日は流して、明日から仕事に取り掛かろうとしたのです。
そんな私の邪推な心を見透かすように、「明日と言う日」は来なかったのです。
明日が今日の延長線上にあるのなら、今日を頑張らない人に、明日は来ないと思い知らされます。
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【抽出】
「壁と言うものは、出来る人にしかやって来ない。超える可能性のある人にしかやって来ない。」
ピンチはチャンスでしかなく、乗り切るべき壁も、乗り越えられることが出来る人にしかやって来ないのです。
これは仕事の場面であると思います。難しい仕事と言うものは、誰にでも出来るものではありません。
やはり、この人なら出来ると上司が認めた人にしか、その仕事は回って来ないのです。
そして、その困難な仕事をやり遂げた時、やはりあの人だから、あの仕事は出来たのだ、
やはりあの人に仕事を任せて良かったとなるのです。
常に球界のトップを、ストイックに走り続けて来た、イチローさんだから言える言葉だと思いませんか。
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【抽出】
「PKを外すことが出来るのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。」
この言葉は、1994年のワールドカップアメリカ大会決勝戦の、PK戦で生まれたものです。
準決勝で右足ふくらはぎを痛めたまま、ブラジルとの決勝戦を迎え、強行出場したももの、精彩を欠き、PK戦となりました。
ブラジルがリードのまま、最終キッカーであるロベルト・バッジョの番になり、
彼の蹴ったボールは、ゴール左上に、遥か高く打ち上げたことで、イタリアは優勝を逃がします。
PKを外してしまったことで、イタリア国内から非難される局面で、この逆境から立ち直り、この経験を生かして、
次の機会には同じ失敗を繰り返さないために、自らを鼓舞するために、この名言が生まれました。
こんな事も言ってます。「PKを決めても誰も覚えていない。外したら誰もが忘れない。」
【中古】ロベルト・バッジョ-ファンタジスタ-(引退記念生産限定特別BOX版) [DVD]
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【抽出】
FIFAワールドカップでPKを外したロベルト・バッジオの名言。
「大切なものは、目に見えないからね。」
『星の王子さま』の中で、サン・テグジュペリがこんな名言を、王子さまとキツネの会話の中で、キツネに言わせています。
この言葉は、『星の王子さま』の作品の中でも、象徴的な言葉だと思います。
人は目に見えるものを大事にしますが、本当に大切なものは、目に見えない、心の気持ちです。
人を思いやる気持ちや、助け合う心、人への感謝の思いなど、目には見えませんが、大切にしなければならないものが、たくさんあるのです。
作者の、アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリは、1900年6月29日にフランスのリヨンで生まれ、
幼少期より飛行士に憧れて、兵役に志願し、陸軍飛行連隊に入隊、軍用機操縦士として活躍し、退役後も民間飛行士として活躍しました。
軍隊に属しながら26歳で作家デビューして、その体験をもとに、
『南方郵便機』1929年刊行、『夜間飛行』1931年刊行、『人間の大地』1939年刊行、などを出版したのです。
1939年第二次世界大戦に召集され、ドイツ軍のフランス侵攻を受け、アメリカへ亡命し、
ニューヨークで『星の王子さま』を執筆し、1943年に出版したのでした。
星の王子さまオリジナル版 [ アントアーヌ・ド・サン・テグジュペリ ]
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【抽出】
「幸福な人は、幸福だから笑っているのではない。笑っているから、幸福なのだ。」
ヒルティの『幸福論』1891年、アランの『幸福論』1925年、ラッセルの『幸福論』1930年です。
その中でも、人気があるのがアランのようです。アランは『幸福論』で、何を言いたかったのでしょう。
概略で言うと「幸福になろうとしないと、幸福にはなれない。そして、それは心と体の使い方で決まる。」と、言うのです。
アランは、「気分と言うものは、いつも悪いもので、幸福になるためには、コントロールが必要だ」と、言います。
感情や、情念に振り回されないようにしたり、愚痴を言ってはいけないとも、言っています。
不機嫌な状態では、精神的なものよりも、体に変調を来たすとしました。
自分自身と喧嘩をしないように、上機嫌を生活の第一に考えて、ポジティブシンキングで、幸福になる努力をする事だと言います。
そして、「幸せにはキリがない」とも、言っています。
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【抽出】
「最大のピンチの後には、最高のチャンスが来る。」
東野圭吾さんは稀代の小説家で、『マスカレード・ホテル』『ナミヤ雑貨店の奇蹟』『容疑者Xの献身』『麒麟の翼』など、多くの著作を著しています。
最大のピンチって言うのは何でしょうか。たぶん、自分の人生を左右しかけない、ピンチなんじゃないでしょうか。
サラリーマンなら、左遷や関連会社への、出向を命じられた時でしょうし、
事業者の方なら、資金繰りが回らず信用の失墜など、倒産の危機が迫っている状態でしょうか。
著述業の方なら、アイデアの枯渇などで、作家生命の限界を感じた時かも知れません。
色々な職業の方が、先々に不安を感じ、追い詰められた陥っている状況でしょう。
そんな境遇に置かれても、腐らず、へこたれず、自分に与えられた仕事に対して、真摯に取り組み、自分に何が足りなかったのかを考え、
それに気付くことから、解決の道が開ける可能性があるのかもしれません。
そして、そんな状況を見ていて呉れる人が、必ずいる筈です。
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【抽出】
「人間に必要なのは困る事だ。絶体絶命に追い込まれた時に、出る力が本当の力です。」
彼は、1906年(明治39年)に静岡県浜松市で生まれ、1922年(大正11年)東京本郷湯島の自動車修理工場「アート商会」へ入社し、
その6年後に、のれん分けをしてもらい、浜松市で支店として独立、1948年に本田技研工業を設立したのです。
本田技研工業は、最初は二輪車のバイクから始め、「スーパーカブ」が大ヒットし、
その後、四輪車に移行し、数々の名車を生み出し、ラリーレースにも参戦しました。
「無」から「有」を生み出す仕事は、多くの困難に直面する事でしょう。それを乗り切るために、この言葉が出て来たように思えます。
本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書 (日経ビジネス人文庫) [ 本田 宗一郎 ]
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【抽出】
「人生という本は、後ろの方に、答えが書いてあるんじゃないんだ。」
「Peanuts」は1950年にアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツが新聞連載を、したコミックです。
コミック誌の発行部数は、4億部を超えていると言います。
題名の「Peanuts」は、ピーナツでも食べながら、気楽に読めるマンガとして、その題名が付けられた説があるようですが、
シュルツは、これを否定していたそうです。
登場人物のスヌーピーは、ちょっと皮肉っぽい犬ですが、その飼い主のチャーリーブラウンは、とても人間味に溢れています。
チャーリーブラウンは、野球が大好きで、監督兼ピッチャーですが、彼のチームはいつも、負けてばかりなのです。
ピンチになると仲間たちが、ピッチャーズマウンドに駆け寄って、彼を励まします。
彼はどんなに打たれようが、どんなに三振しようが、決して諦めないもです。
この言葉の意味は、人生の答えは、その都度どうしたら良いかの、自分が一番分かっている筈だと言うことなんでしょう。
完全版 ピーナッツ全集 16 スヌーピー1981~1982 (完全版 ピーナッツ全集 全25巻) [ チャールズ・M・シュルツ ]
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【抽出】
「配られたカードで勝負するっきゃないのさ……それがどういう意味であれ。」
これは、「Peanuts」の中で、スヌーピーが発した言葉です。
人には生まれた時から、格差が存在します。
裕福の家庭に生まれたのか。豊かな国に生まれたのか。そうです、配られたカードには、最初から格差があるのです。
格差は入学した学校、入社した会社や組織でも存在します。でも、人はそれを受け入れて、人生を歩まなければなりません。
でも、その格差は、どのように戦うかに掛かっています。
自分のやる気や、どれくらい努力する力があるのか、どれくらい踏み出す勇気があるかに、掛かっているのであって、
いつまでも、配られたカードのせいにしていたのでは、後ろ向きに歩む、人生になってしまうと思いませんか。
だから、配られたカードには、大した意味は無いんだと、スヌーピーは、私たちに教えて呉れています。
人生では、むしろ配られたカードを逆境にして、素晴らしい人生を歩んでいる人たちがたくさんいるのです。
完全版 ピーナッツ全集 18 スヌーピー1985~1986 (完全版 ピーナッツ全集 全25巻) [ チャールズ・M・シュルツ ]
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「散歩のついでに富士山に登った人はいない」
この言葉は、経営コンサルタントで多くの著書を出版している、小宮一慶さんの文章に、たびたび登場する言葉です。
確かに、散歩の途中で富士山に登る人はいないでしょう。
何の準備もせずに、気が向いたからと言って、ふらっと、富士山に登る人は、いない筈です。
富士山に登るからには、事前に計画を立てて、登山の準備をし、
登山用のバックや、登山靴を揃えたり、レインウエアも必要かもしれません。
食料品や飲料水など、一通りの登山準備をする筈です。登山ルートを考えて、おおよその登山時間を確認します。
更に、天候のチェックをして登山に臨む筈です。
物事を成し遂げるには、事前に調査をして計画を立て、物によっては、何週間も、何か月も、何年も準備をする事もあるのです。
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「こけたら立ちなはれ」
これは松下幸之助の言葉です。彼は1894年(明治27年)に、和歌山県で三男として生まれました。
父親が米相場で失敗して破産、その後一家は下駄屋を始めましたが、
父親に商才がなく幸之助は、小学校を中退し、9歳で丁稚奉公に出て、多くの従事を積むのでした。
後に、奉公先を自転車店へ移し、自転車商売の原点を学びました。
明治43年に、大阪に市電が開通し、電気で走る「路面電車」に衝撃を受け、電気事業の将来性を感じ取り、電気の世界に入り込むのです。
「こけたら立ちなはれ」なんと、勇気を与えて呉れる言葉ではないでしょうか。
そんな言葉を、企業のトップが掛けて呉れたら、感動しない社員はいない筈です。
きっと、「君は成功するために、たくさん努力して来たんだろう。でも、今回は失敗してしまった。
それなら、もう一度、さあ! 立ち上がって挑戦をしよう。」こんな風に言っているように思われます。
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「失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたい。」
幸之助は明治43年に、大阪に市電が開通し、電気で走る「路面電車」に衝撃を受け、電気の世界に入り込みました。
16歳で大阪電灯(現、関西電力)へ入社すると、電球の取り替えの不便さを改良する、ソケットの考案をするのでした。
そして、大正6年に、手持資金95円で独立、狭い借家を工場にして、妻と、妻の弟(井植歳男:戦後、三洋電機を創業)などと、改良ソケット製造を始めるのでした。
その改良ソケットは、時代が求めていた製品で、庶民の生活を便利にしたのです。
そして、いまや、松下電器は「パナソニック」と名前を変える、一大家電メーカーを作り上げたのでした。
それにしても、凄い兄弟だと思いませんか、兄弟二人が日本を代表する、巨大家電メーカーを作り上げているのです。
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「やってみなはれ、やらなきゃわかりゃしまへんで」
鳥井信治郎は、1879年(明治12年)に大阪で両替商、米穀商を営んでいた家の、二男二女の末っ子として生まれました。
13歳の時に、丁稚奉公に出ました。奉公した先は、小西儀助商店の小西儀助の所でした。ここは薬種問屋で、漢方薬だけでなく、
輸入したぶどう酒、ウヰスキー、ブランデーなども取り扱っていたようです。
この小西儀助商店は、現在、接着剤の「ボンド」を扱うコニシ株式会社です。
この言葉は、やってみては考えて、やってみては修正する、度胸とパイオニア精神を、持たせる言葉です。
先ずは実行して見る、その中で考えるという手法です。
その裏には、「失敗してもいいじゃないか、それは君の責任ではない」という意味が、盛り込まれているんじゃないでしょうか。
鳥井信治郎がこの言葉を使った背景には、会社を興した頃、仕事に悩み、
母親に相談したところ「やってみなはれ」と言われた事が、影響していたようです。
琥珀の夢 小説 鳥井信治郎 上 (集英社文庫(日本)) [ 伊集院 静 ]
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【抽出】
「金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である。」
これは小林一三の言葉です。彼のことを知っていますか。今の時代なら、一番有名なのは、宝塚歌劇団を作った人でしょうか。
宝塚歌劇団は、兵庫県宝塚市に本拠地を置く歌劇団で、阪急電鉄の一部門で、
阪急阪神東宝グループのエンターテインメント・コミュニケーション事業として運営されていて、歌劇団員は阪急電鉄の社員です。
小林一三は、1873年(明治6年)に、山梨県韮崎市の商家の生まれ、福沢諭吉が塾長だった、慶応義塾大学に進み、三井銀行(現、三井住友銀行)に就職しました。
その後、電鉄事業の将来性が有望と感じ、箕面有馬電気軌道に転身し専務となり、
鉄道事業、宅地開発事業、百貨店、映画界など、多くの事業を成し遂げた人でした。
「乗客は電車が創造する」として、沿線開発に商機を見い出し、鉄道と沿線開発をマッチングさせ、事業を飛躍的に躍進させたのでした。
この言葉は、何かを言い訳にして、出来ない事を正当化している人を、一刀両断しているような言葉です。
小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか [ 伊井 春樹 ]
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「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たら、その後の人生を、どこで過ごそうとも、パリはついてくる、パリは移動祝祭日だからだ!」
ヘミングウェイの『移動祝祭日』は、彼の没後、1964年に刊行されたのです。
1920年代の、1921年~1926年の、パリ修業時代を送った思い出を、61歳の絶筆で書き表したのが『移動祝祭日』なのです。
このタイトルは、ヘミングウェイ自身によるものではなく、
彼の死後、この言葉に感銘を受けたホッチナーの助言で、ヘミングウェイの最後の妻、メアリーが、この題名を決めたものです。
1920年代のパリを舞台に、第一次世界大戦後の傷を癒していた、22歳のヘミングウェイが、行きつけのカフェで、執筆に没頭し、
ガートルード・スタイン、スコット・フィッツジェラルドと言った、芸術家たちと交流しながら、パリで生きてゆく姿を描いています。
移動祝祭日 (新潮文庫 新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]
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「読書っていうのは冒険の一種なんだ、本を読むのは、新しい場所への旅だ。」
スヌーピーでお馴染みの「Peanuts」は、1950年にアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツが新聞連載したコミックです。
作者、チャールズ・M・シュルツは、貧しいドイツ系移民で、
理髪師として、生計を立てていた父と、ノルウェー系移民の母の間に、1922年にミネソタ州で生まれました。
幼い頃から、絵の才能が有ったようで、幼稚園のころから、
将来は画家になるんじゃないかと、噂されていたようで、それが、彼の励みになっていたそうです。
彼の性格は内気でしたが、勉強は良く出来たと言います。
しかし、体格の良い子供たちから、仲間外れにされた経験が、後の、チャーリーブラウンの、誕生に繋がるようです。
チャールズ・M・シュルツは、成人になると、第二次世界大戦で、ヨーロッパへ出兵し1945年に除隊後、
アート・インストラクション・スクールに就職します。そして、そこにいた同僚の名前が、チャーリーブラウンだったのでした。
完全版 ピーナッツ全集 2 スヌーピー1953~1954 (完全版 ピーナッツ全集 全25巻) [ チャールズ・M・シュルツ ]
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「書物そのものは、君に幸福をもたらすわけではない。ただ書物は、君が君自身の中へ帰るのを助けてくれる。」
ヘッセは、ドイツ生まれのスイスの作家で、主に詩と小説によって知られる、20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者です。
南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多く、
ヘッセは、風景などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行しています。
代表作は『車輪の下』で、それは、ドイツの田舎町、シュヴァルツヴァルトで、幼い頃から優秀だった主人公のハンスが、神学校へ入学します。
地元の期待を一身に背負いますが、共に学ぶ友人もいない中で、勉強に明け暮れ、淡々と続く生活の中、
やせ細った青白いハンス少年は、追い詰められて1年も経たずに休学し、そして、悲しい結末が待っていたのです。
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「読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ。」
ウィリアム・サマセット・モームは、イギリスの小説家で劇作家です。フランス・パリに生まれ。10歳で孤児となり、イギリスに渡ります。
医師となり第一次世界大戦では軍医として従軍し、1919年に『月と六ペンス』で注目されたのです。
『月と六ペンス』は、画家のポール・ゴーギャンをモデルにした小説で、
絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を、友人の一人称という視点で描かれています。
モームはこの小説を書くにあたり、実際にタヒチへ赴いたのです。
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「ドンキホーテは読書によって紳士になった。そして読んだ内容を信じたために狂人となった。」
『ドン・キホーテ』は、スペインの作家、ミルゲ・デ・セルバンテスの小説です。
当時のヨーロッパで流行していた、騎士道物語が大好きな、下級貴族の主人公は、村の司祭と床屋を相手に、騎士道物語の話ばかりしていました。
やがて彼の騎士道熱は、本を買うために、田畑を売り払うほどになり、
昼夜を問わず、騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失い、妄想に陥った主人公が、
自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」と名乗って、
痩せこけたロバのロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ、遍歴の旅に出かける物語です。
そんな、『ドン・キホーテ』を、皮肉屋のバーナード・ショーが、見事に言い現わしています。
ドン・キホーテ 前篇1 (岩波文庫 赤721-1) [ セルバンテス,M. de ]
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「自分には学校というものは、一切存在理由がなかった。自分にとって、図書館と古本屋さんさえあれば、それで十分であった」
これは、司馬遼太郎の言葉です。司馬遼太郎と言えば『坂の上の雲』を思い浮かべます。
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘を繰り広げた秋山好古。
東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った、弟の秋山真之。
そして、病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。
この三人を中心に、明治維新を経て、近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、
その明治という時代を生きた、男たちの生涯を描いた、司馬遼太郎の歴史小説です。
しかし、根強い人気作品と言えば、『竜馬がゆく』でしょう。
司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の執筆にあたり、神田神保町の古本屋街に行ったそうです。
そこで、複数の古書店から、ワゴン車1台分、当時の価格で1,400万円もの古書、古文書を購入して、『竜馬がゆく』の執筆にあたったそうなのです。
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「人間はいくつになっても、可能性がある。」
三浦雄一郎さんは1932年に青森県青森市で生まれた、スキー選手、登山家、獣医です。
冬季オリンピックのメダリストに名を連ねる、世界プロスキー選手権で、世界ランキング8位となるなど、プロスキーヤーとして活躍しました。
そして、世界最高峰のエベレストに、世界最高齢となる70歳7ヵ月で登頂を果たし、ギネス記録を樹立しました。
三浦雄一郎さんの父親、三浦敬三さんも山岳スキーヤー、長男の三浦雄大さんは、競技スキーヤー、
次男の三浦豪太さんは、リレハンメル五輪・長野五輪に出場した、フリースタイル選手などのスキー一家なのです。
三浦雄一郎さんが86歳の時に、アルゼンチンのチリ国境付近にある、南米最高峰のアユンカグア(標高6,961m)に挑戦します。
登頂とスキー滑降での制覇を目指して、基礎体力の向上や、高地トレーニングなどを、ご自分に課していたようです。
しかし、登山開始後にドクターストップにより、6,000m付近で登頂を断念されたようです。
86歳と言う年齢を考えたら、適切な判断だった事でしょうが、凄い行動力です。
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「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒に振るか。」
ヘレン・ケラーは1880年6月27日に、アメリカ南部のアラバマ州タスカンビアで生まれました。
生後19か月のとき、ヘレン・ケラーは高熱に伴う髄膜炎を患います。
一命は取り留めましたが、聴力と視力を失い、話すことも出来なくなってしまいます。
このため、ヘレン・ケラーは両親から、うまく躾けを受けられず、わがままに育ってしまったのでした。
ヘレン・ケラーが6歳のとき、父母は視覚障がい者の学校へ支援を求めると、当時20歳のアン・サリヴァンが派遣されて来たのです。
サリヴァンは、二人だけで2週間過ごすと、ヘレン・ケラーが変わると約束をし、日常の動作や、食事のマナーを教え、
全てのものに名前があることを、ヘレン・ケラーが気付いて呉れれば、彼女の世界が広がると信じていました。
そして、約束の2週間が過ぎた時、ヘレン・ケラーは指文字の意味を理解したのでした。
ヘレン・ケラー 目・耳・口が不自由という障害を乗りこえ、人々に愛と (伝記世界を変えた人々) [ フィオーナ・マクドナルド ]
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「数えきれないほど、悔しい思いをして来たけれど、その度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。」
手塚治虫は、1928年兵庫県豊中市に生まれました。明治節に生まれたことから、明治にちなんで「治」と名づけられたようです。
父は現在の、住友金属工業に勤め、前衛的な写真家でもありました。
更に、祖父は日本の司法官で、家庭はかなり裕福な生活をしていたようです。
友人の影響を受けて昆虫、科学、天文学に興味を持つようになります。
そして、手塚家の邸宅には広い庭があり、そこは昆虫の宝庫だったようです。
昆虫の存在を知り、それにちなんでペンネーム「手塚治虫」を、使いだしたようです。
1941年に中学校入学した年が、太平洋戦争が勃発した年で、1946年、17歳で終戦をむかえ、子供向け新聞に4コマ漫画を開始しました。
その後、大阪帝国大学付属医学専門部を卒業し、1952年、23歳の時に医師免許を取得しますが、
母の後押しもあって、専業漫画家の道へ進むことになったのでした。
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「月が綺麗ですね」
恋愛下手な日本人が、素直な愛情表現を表すのを苦手としていた時代に、日本文化に合うように変化させた、情緒あふれる名言です。
夏目漱石が、高等師範学校(後の東京高等師範学校、旧東京教育大学、現在の筑波大学の前身)で、
英語嘱託となって赴任を命ぜられたのが、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)でした。
1895年(明治28年)4月から教鞭をとっていたのです。
そんな、英語教師をしていた夏目漱石が「I LOVE YOU」という英語を、弟子に翻訳させますが、
その答えが「我汝を愛す」だったため幻滅します。
「日本人はそんなことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と言ったことから、生まれたとされています。
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「チャンスなんて、そうたびたび巡って来るものでないわ。だから、いざ巡って来たら、とにかく自分のものにすることよ。」
オードリー・ヘップバーンは、1929年ベルギーの首都ブリュッセルで生まれました。
父親の家系がイギリスの市民権を持っていて、母親の実家はオランダでした。
父親の仕事がイギリスとの関係が深く、一家はこの3ヵ国を、頻繁に行き来していました。
しかし、父親が子供の子守りとの浮気を行い、家庭を捨てて出て行ったのでした。
母子は、第二次世界大戦直前の、1939年にオランダのアーネムに戻ります。
これはオランダが、第一次世界大戦時に、中立国の立場を取っていた事から、第二次世界大戦でも、安全な場所に避難したからでした。
そして、ヘップバーンはオランダのアーネム音楽院へ通い、バレエを学んでいました。
1945年に第二次世界大戦が終結すると、アムステルダムに移住し、そこでバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなったのでした。
1948年に初めての映像作品に出演した後、1951年にブロードウェイ舞台作品『ジジ』の主役を射止めます。
そして、1953年『ローマの休日』で、アカデミー賞主演女優賞を獲得したのです。
【抽出】
「なんだか自分だけのために使うのは、もったいなくなってって、僕も、お父さんたちが、お土産を買ってくる気持ちがわかったよ。」
『サザエさん』第2563話「ぼくたち、勤労の夏」でのお話です。
カツオは夏は交際費がかさむからと、せっせと小遣い目的で家の手伝いをすます。
しかし、なかなか貯まらないことから、九州の海平おじさんに、小遣いを融通してもらうために、電話してしまいます。
その悪巧みが、波平にばれて「手伝いしても小遣いは禁止だ!」と怒られる始末です。
その翌日に、中島君が「フリーマーケットの手伝いを一緒にやろうよ」と、カツオを誘いに来ます。
そして、中島君のつてで、女子大生のフリーマーケットのお手伝いをする事になり、カツオと中島君の大活躍で、無事お小遣い500円をゲットしたのです。
そのお小遣の使い道が、家族のためにスイカを買って帰ったんです。
自分の為ではなく、家族みんなのために、お金を使ったカツオに感動です。
磯野家の相続〔令和版〕 (PHP文庫) [ 長谷川 裕雅 ]
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【抽出】
近江商人の「三方よし」
近江商人の「三方よし」は、江戸時代~明治時代にかけて、
今の滋賀県の近江を拠点として、他国へ行商をしていた近江商人が、規範としていた考え方です。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」と、商売は誰か一方が儲かったり、満足したのでは良い取引と言えず、
この三者が満足してこそ、長続きする商売だとしています。
そして、こうした規範の中心にいた人物が、伊藤忠兵衛、そうです、現在の、伊藤忠商事の創設者なのです。
近江を拠点とする、100年以上続く企業が多くあります。高島屋、大丸、西川産業、伊藤忠商事などの企業です。
近江商人が行っていた規範は、今でも、会社経営の根幹を成すものです。
その考えは、こんな規範で、今でも、商売の基本的な考え方です。それはこんなことです。
社会貢献や、人のために奉仕すること。品質の良い物を販売し、
アフターサービスに努める。信用ある商売を行い、そして正札商売に徹するなどです。
近江商人の理念 増補版 近江商人家訓撰集 [ 小倉 榮一郎 ]
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【抽出】
滋賀県を拠点に財を成した、近江商人の『三方よし』に、商売の極意あり。
「愛っていうのは、わかちあうものなの。とりあったりするものではないのよ。ほんとうの愛は、はてしなく深まっていくものなの」
作者のビアトリクス・ポターは、1866年にロンドンの、ケンジントンの裕福な、上位中流階級の家に生まれました。
1893年に知人の5歳になる、病気の息子:ノエルのために送った絵手紙のなかで、あのイギリスの田舎が良く似合う、ピーターラビットが登場しました。
それは、イギリスの田舎の農園を舞台にした物語でした。いたずら好きのピーターラビットが、マクレガーさんの庭に入り込み、
レタスを食べているところを、彼に見つかってしまうような筋書きで、物語は展開されてゆきます。
四季折々の自然のなかで、ピーターラビットが、織りなす物語は、子供から大人まで、楽しませて呉れています。
ピーターラビットが、誕生してから100年以上経った今でも、世界中で、最も有名なウサギとして、愛され続けて来ています。
その絵本は、全世界で、2億5千万部を超える大ベストセラーとなり、
日本では1971年に、日本語版の絵本が出版され、1,300万部のベストセラーになりました。
そして、年間5万人以上の日本人が、イングランドの田舎町を訪れているのです。
ピーターラビットシール(2) (まるごとシールブック) [ ビアトリクス・ポター ]
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【抽出】
ピーターラビット絵本の作者ビアトリクス・ポターが愛した湖水地方。
「自分の失敗を語るのに躊躇はしない。」
この言葉は『緋色の研究』(1887年)の中で、シャーロック・ホームズが発します。
『緋色の研究』では、ホームズと、パートナーとなるワトスンとの出会いが、描かれた場面から物語が始まります。
イギリスの作家、アーサー・コナン・ドイルが執筆したシャーロックホームズシリーズは、
友人ジョン・H・ワトソン医師が物語の、書き手となり、物語を進める形態の推理小説です。
ジョン・H・ワトソンがある日、共同生活者として、シャーロックホームの下宿先の、部屋にやって来ます。そして、あの有名なシーンです。
シャーロックホームズは始めて出会ったワトソンに対して、
アフガニスタンに従軍し、戦場で左肩に重傷を負い、イギリスに送還された軍医でしょうと、言い当てるのです。
そんなホームズの観察力、推理力に驚かされるようにして、読者を推理小説の世界へ誘うのでした。
緋色の研究/コナン・ドイル/延原謙【1000円以上送料無料】
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【抽出】
「努力すれば報われる?そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ」
彼は、1987年6月24日生まれ、アルゼンチンサンタフェ州ロサリオ出身のプロサッカー選手です。
リーガ・エスパニョーラ・FCバルセロナ所属し、10度のリーガ・エスパニョーラ優勝、
6度のコパ・デル・レイ、4度のUEFAチャンピオンズリーグを含む、バルセロナ歴代最多33回の優勝に貢献しています。
彼自身も歴代最多タイの、バロンドールを受賞し、6度のチャンピオンズリーグ得点王と、歴代最多6回の、欧州得点王を獲得しているのです。
リオネル・メッシは、世界が認める最高のサッカー選手の一人であり、スポーツ界においても、レジェンドとして名を残す活躍を見せています。
その彼でも、才能がありながらも、人には見せない努力を続けてきたからこそ、
そのチャンスを掴んだと、言うことが分かる言葉です。
【謝恩価格本】リオネル・メッシ [ サンジーヴ シェティ ]
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【抽出】
「成功は偶然の出来事ではない。勤勉、忍耐、練習、研究、謙虚、そして何よりも愛情が必要である」
サッカーの神様・ペレは、1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスに生まれます。
同じ時期に町に電気が敷設されたことから、トーマス・エジソンにちなんで「エドソン」と名付けられたようです。
父はサッカー選手で、彼もやがて、父と同じサッカー選手を志すようになり、父からサッカーに必要な、技術や心構えを学んだのです。
ペレを、知らない人はいないというくらい、世界最高のプレーヤーとして、今でも語り継がれている選手です。
そのような彼ですら、勤勉に忍耐強く、努力をし続けることでしか結果を得ることはできないと言っています。
また愛情を持っていなければいけないと言うところに、彼らしさが現れています。
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「どうして笑うんだい?彼のポルトガル語は素晴らしいよ。一生懸命やっているのに、笑うことはないだろう!」
2014年7月、イベントで来日したクリスティアーノロナウドに、一人サッカーの少年が、ポルトガル語で質問をしました。
大勢の報道陣が周りを取り囲み、すぐ目の前には、あの世界最高峰のフットボーラーであるロナウドがいる。
このような状況に、少年は緊張のあまり、震える声で、
何度も練習をしてきた質問を、ポルトガル語で話そうとしますが、言葉に詰まってしまったのです。
それに対し、報道陣から笑い声が起こると、ロナウドは少年の肩に手を置きながら、報道陣に目を向けて、この言葉を言い放ったのです。
一生懸命に頑張っている人に対して、敬意と優しさの溢れる、素晴らしい言葉に感動します。
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【抽出】
「ゴールがあるから蹴るのではない。俺が蹴るからゴールがあるんだ」
これは、ガブリエル・オマール・バティストゥータの言葉です。彼は、1969年2月1日生まれ。
アルゼンチン・サンタフェ出身の、元プロサッカー選手で、ポジションはフォワードでした。
1990年代を代表するフォワードの一人で、セリエAで活躍し、セリエAの、外国人最多通算得点記録を保持しています。
アルゼンチン代表にも選抜され、代表の歴代得点記録も有しています。得点感覚に非常に優れたエースストライカーで、
彼の名言からも、フォワードとして、プレーすることに対するプライドと、絶対的な自信が感じられます。
逆境を超える「ポジティブマネジメント論」 西野朗165のメッセージ [ 西野朗 ]
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【抽出】
「人生はサッカーであり、サッカーこそが人生」
彼は1960年10月30日生まれ、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身の、元サッカー選手でサッカー指導者でした。
現役時代のポジションは、フォワードまたは、ミッドフィールダーです。
サッカー界の天才、マラドーナは、卓越した足元の技術を武器にアルゼンチン代表としても、各クラブでも活躍をした世界最高のサッカー選手です。
ピッチ外に於いては、スポーツ選手として、ふさわしくない行為も多々ありましたが、
彼の言葉には力があり、多くの人々に影響を与えています。
アルゼンチンでは、サッカー選手になるということは、憧れであると同時に、貧困から抜け出すことが出来る方法でした。
生きることに対するプレッシャーや、アルゼンチン代表としてサッカーをプレーするということは、
それと同等に思い重責があるということを、この言葉から感じ取ることが出来ます。
マラドーナ独白 ー1986年のメキシコW杯ー【電子書籍】[ ディエゴ・アルマンド・マラドーナ ]
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【抽出】
「本は読み終わったら、すぐに処分します」
これは、金髪に赤のスーツ姿の凄いインパクトで、強烈な個性をアピールをしている、カズレーザーさんの言葉です。
彼は読書好きで、年間200冊以上の本を読んでいるようで、
雑誌、図鑑、文学、絵本、エッセイ、新書など、幅広いジャンルの本を読破しています。
そのうえ、番組などで語るユニークで正直な「書評」がおもしろいと評判で、
カズレーザーさんが、おすすめした本は、翌日には書店から姿を消すとまで、言われています。
カズレーザーさんは、驚いた事に「本棚は持っていません」と言うのです。本は床に直置きで、40㎝ほど積み上げているだけだそうです。
「20冊ぐらいになったら、後輩にあげたり、古本屋で売ります」「本は読み終わったら、すぐに処分しますね」
※「同じ本を2回は、読まないの?」と聞かれた、カズレーザーさんは、「2回読みたい時は、また買います。」
「作者さんに、また印税が入るのが正しいと思って…」と語っていたのです。
カズレーザーが解けなかったクイズ200問 [ カズレーザー ]
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「コペル君、いま君は、大きな苦しみを感じている。なぜ、それほど苦しまなければならないのか。それは、君が正しい道に、向かおうとしているからなんだ。」
『君たちはどう生きるか』という本は、1937年(昭和12年)に刊行されました。それが近年漫画化され再ヒットしています。
この本は、子供のための哲学書と言われています。
主人公のコペル君は、クラスメートがいじめに遭っていることに、立ち上がろうと呼びかけましたが、
いざ、その現場に直面すると、友だちを置き去りにして逃げてしまいます。
その結果、友達たちはいじめっ子から、ボコボコにされ、友達から無視されてしまいます。
追い込まれたコペル君は、おじさんに仲裁役を頼み、自分を許して呉れるように説得を頼みました。
すると、おじさんから、こんな答えが返って来たのです。
「コペル君、君の考えは間違っているぞ、君は勇気を出せずに、大事な約束を破ってしまった。苦しい思いをしたから、許してもらおうなんて、そんなこと言える資格はない筈だ。」
「コペル君、いま君は、大きな苦しみを感じている。なぜ、それほど苦しまなければならないのか。それは、君が正しい道に、向かおうとしているからなんだ。」
コペル君は自分の過ちを受け入れ、友達に手紙を書いて謝罪することにしたのです。
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【抽出】
「企業の目的は、顧客を創造すること。」
この言葉は『マネジメント』の著者・ピーター・F・ドラッカーの言葉です。
『マネジメント』と言うと、企業にお金儲けのノウハウを教える、ハウツー本のように思いますが、
実際は「人間が如何に幸せに生きるか」を、ドラッカーは説いています。
より良い社会を築いてゆくための、組織づくりを書いたのが『マネジメント』なのです。
この本は、お金儲けのための方法ではなく、人が働く社会が、正しい社会であるための方法が、したためられているのです。
企業が行うことは、企業は何を売りたいかでなく、顧客が何を買いたいのかを、考える事だと言います。
そして、ドラッカーはこのように言っています。「企業とは何かを知るためには、企業の目的から考えなければならない。
企業の目的は、それぞれの企業の外にある。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。
企業の目的の定義は1つしかない。それは、顧客を創造することである。」(マネジメントより)
マネジメント[エッセンシャル版] 基本と原則 単行本 中古 ピーター・F・ドラッカー マネジメント
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【抽出】
「未来のことは分からない。未来は現在とは違う。」
『マネジメント』の中で、ドラッカーは未来について、確実に言える事は、2つしかないと言っています。
1つ目は、「未来のことは分からない。」2つ目は、「未来は現在とは違う。」と、言っています。
しかしながら、そんな、未来を知る手立てが、2つあると言うのです。
1つ目の方法は「既に起こっている事から未来を見る」と言うものです。
例えば、今年の出生数が、30万人減ったとすれば、6年後に、小学校へ入学する児童が、確実に30万人減ると言う事実です。
2つ目の、未来を知る方法は「自分で未来を作ること」だそうです。
例えば、子供を1人作れば、人口は1人増えます。事業を興せば、財・サービスと雇用を、生み出すと言うのです。
歴史は、ビジョンを持つ、一人一人が作り出していて、「人」こそが企業の財産であると、ドラッカーは言っているのです。
ピーター・ドラッカーの経営論 経営成功特論 (HSUテキスト) [ 原田尚彦 ]
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【抽出】
「組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネージャーの力である。」
ドラッカーの『マネジメント』は経営者や、ビジネスマンの必読書でした。
それが、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」で更に知れ渡りました。
そして、この本はビジネスマンだけでなく、学生にも読まれ、ドラッカーブームの再来となったのです。
女子高生とドラッカー、決して出会う事がない、一見何の一致点もない、2つのキーワードが、
マネジメントと言う、融合点で結び付き、ベストセラーになったのです。
『もしドラ』では、高校野球部の女子マネージャーは、野球部と言う組織を改革し、野球部と言う組織を、より良くすることで、
試合で良い成績が出せれば、結果的に、野球部員に自信と、勝利の幸福感が生まれ、野球部と言う組織が、より良く活性化することに、挑戦したかったのです。
そして部員たちは自信が付けば、もっと、輝きたいと思う筈です。
そうすれば、野球部と言う組織が活性化して、高校生活が更に楽しくなる筈なんです。
そんな、組織に彼女は、きっと、変えたかったんじゃないでしょうか。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら (新潮文庫) [ 岩崎 夏海 ]
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「偉人賢人有名人の短い名言!心に残る響く一文・一言の言葉。」への3件のフィードバック
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