“理想の読書のシチュエーションを探して”
自分の好きな本は何回も読み返すことがあります。
10代の頃に読んだ、夏目漱石の『こころ』を、その後、年代を重ねる毎に、何回も読み返していました。
その都度、前に買った『こころ』が、自宅の本棚で見つからず、本屋さんに何回か買い求めた事を覚えています。
学生の頃は授業中や、部室の片隅で読んでいたのが、
社会人になってからは、殆どが通勤電車の中で読むと、言うことになりましたが、
本当は、主人公の「私」が、始めて先生に出会った、夏の鎌倉で読みたいと、毎回読み始める度に思っていたのです。
そして、この夏も読んでいました。
そんなことで、本好きな人なら、こんなようなシチュエーションで、
こんな風に、本を読んで見たいと考えた事が、あるんじゃないかと思っていたのです。
目次 24旅 51選。
四季を感じる読書
晴耕雨読の読書
究極を感じさせる読書
サンクトペテルブルグの読書
アンコールワットでの読書
青森県津軽の旅での読書
ホーチミンでの読書
木曽路・馬籠宿での読書
斑鳩の法隆寺での読書
英国流の釣りの読書
瀬戸内海の船上での読書
神保町の古本屋街での読書
百済・高句麗の旅での読書
能登半島での旅の読書
ニッカウヰスキー余市での読書
浅草「駒形どぜう」での読書
ホテルミラコスタでの読書
モスクワの高速道路での読書
南の島での休日の読書
京都・龍安寺での読書
北鎌倉ぶらり散策での読書
戦場ヶ原の森の中での読書
道後温泉での湯上りの読書
馴染みの蕎麦処での読書
四季を感じる読書。
満開の桜の木の下で、チラチラ舞い散る花びらを愛(め)でながら、スタンダールの『赤と黒』[※1]のページをめくる時には、
それが暖かい日なら、魔法瓶に入れたグリーンティー、
肌寒い日なら、ウイスキーボトルに詰めた、シングルモルトがいいんじゃないかと。
避暑地の木漏れ日の中で、「緑陰読書」に耽って見たいと洒落込み、堀辰雄の『美しい村』[※2]を読む時には、
飲み物はアールグレイの、アイスティーに限ると。
海辺のテラスバーで、潮風を感じながら、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』[※3]の読書をして見たいと思った時は、
飲み物はドライマティーニに勝るものは無いんじゃないのかと。
そして真冬の焼き鳥屋で、カウンターに座って、熱燗を相手に読むのは、やっぱり、タブロイド判の夕刊が一番かもしれません。
美しい日本の四季 うつろう彩り、残したい原風景 [ MdN編集部 ]
|
[※1]スタンダール『赤と黒』
『赤と黒』は1830年に出版されたスタンダールの代表作です。
フランス東部の架空の町ヴェリエールを舞台に、製材所の息子から、立身出世を狙う主人公ジュリヤン・ソレルが、
町長の妻レーナル夫人と、名門の令嬢マチルドという二人の女性との恋愛劇を通して、
復古王政と呼ばれる時代の、フランスの世相を描いた作品です。
ジュリヤン・ソレルは、前時代の英雄ナポレオンに熱烈な憧れを持ちながら、
復古王政の閉塞的な社会を、のし上がろうとした青年です。
題名を構成する『赤』は、ジュリヤンが憧れを抱いていた軍人、
『黒』は、彼が復古王政の時代を、のし上がるために利用しようとした聖職者を表していると言われています。
赤と黒 上 (新潮文庫 スー2-3 新潮文庫) [ スタンダール ]
|
[※2]堀辰雄『美しい村』
『美しい村』は、堀辰雄の中編小説で、『聖家族』に次ぐ堀辰雄の初期の代表的作品です。
「序曲」「美しい村 或は 小遁走曲」「夏」「暗い道」の4章から成り、「夏」の章において、
のちの『風立ちぬ』のヒロインとなる少女が登場します。
まだ夏早い、軽井沢の高原の村を訪れた傷心の小説家の「私」が、1人そこに滞在しながら、村で出会った事を徒然に書き記してゆきす。
野薔薇や村人を題材に、牧歌的な物語の構想を描いていた「私」の目の前に、
転調のように突然と現れた、向日葵の少女への愛を育むうちに、
生を回復してゆく過程が、バッハの遁走曲のような音楽的構成と、プルーストの影響による文体で描かれています。
|
[※3]アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』
『老人と海』の舞台は、キューバのコヒマルです。この土地に住む漁師のサンチャゴ老人は、84日間も不漁が続いていました。
いつも一緒に漁に出ていたのは、マノーリンと言う少年でした。しかし、一匹も釣れない日が四十日も続くと、
少年の両親は、もう老人がすっかりサラオになってしまったと言い、老人の舟に乗ることを禁じます。
サラオとは、すっかり運に見放されたと言うことで、スペイン語で、最悪の事態を意味する言葉です。
しかし、サンチャゴにとって、マノーリン少年は希望といえる存在でした。
そして、カジキを釣る事は、サンチャゴが漁師としての名誉を取り戻すチャンスでした。
しかし、捕まえたカジキは、港に戻る途中で、鮫の襲撃に遭い骨と化してしたのです。
|
【抽出】
晴耕雨読の読書は理想形なのか?
晴れた日には田畑を耕し、雨の日には読書にいそしむ。と言うことでしょう。
何だか読書の理想形のような言葉に見えます。
田園生活者だけでなく、ビジネスパーソンとして働く、多くの人々にとっても、相通じるものがあるでしょう。
読書家としては、何もしないで、読書だけしていられればいいのですが、人生ではそうも行きません。
生活の糧を得るために働きながら、好きな読書をいそしむ。
働くことはとても大事なことで、人生に於いて多くのことを教えて呉れます。
頑張ること、諦めないこと、努力すること、持続すること、そして時には、挫折することだってあるかも知れません。
でも、それが人を作り、その人の人生に深く関わるのです。
そして、明日への英気を養って呉れるものの中に、読書があれば最高です。
「晴耕雨読」の読書法 君たちはなぜ本を読むのか [ 村田一夫 ]
|
晴耕雨読はスローライフの原点
「晴耕雨読」それは、世俗から離れた悠然とした生活や、
田園での老後の静かな暮らしを指し、スローライフとも言える生活の例えですが、
忙しい日々の中で、情報に溢れた社会を生きるビジネスパーソンにとっても、理想的な生き方と言っても良いのでしょう。
晴れた日には働いて汗を流し、雨の日には読書によって、頭や感性を働かせる生活が、
人間にとって、理想的とも言える生活を表しているようです。
その言葉の由来には、諸説ありますが、19世紀~20世紀初頭頃に、使われ始め、
明治時代の文学者・塩谷節山が記した漢文詩にある「晴耕雨読、悠遊するに足る」と言う一文を発祥とする説や、
吉田丹三郎の漢文「晴耕雨読楼記」が、語源になったという説など、いくつかの説が考えられているそうです。
では、「晴耕雨読」で何を読むのが良いのでしょう。基本、雨の日に読むのですから、雨にまつわる本がいいのかもしれません。
前に進むための読書論 東大首席弁護士の本棚 (光文社新書) [ 山口真由 ]
|
「晴耕雨読」の読書。
降りしきる雨の音が、目覚めたばかりの聴覚に飛び込んで来て
「今日は外仕事が出来ない…」と思いつつ、ちょっと嬉しげに本棚に目を遣った。
幸田文の『おとうと』[※4]を引っ張り出し、そして、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
お気に入りはモカブレッド、朝はブラックに限る。
窓に目を遣ると、紫陽花が雨で大きくしなだれていたので、新海誠の『小説 言の葉の庭』[※5]もいいかなと思い始めていた。
[※4]幸田文『おとうと』
主人公の姿や想いまで浮かび上がるような、細やかな描写は臨場感溢れ、小説の冒頭部分としては飛び切りです。
高名な作家で、自分の仕事に没頭している父と、悪意はないが冷たい継母、
その夫婦仲も良くはなく、経済状態も芳しくありませんでした。
そんな家庭の中で、17歳の三つ違いの弟は、崩れた毎日を送るようになり、結核に罹ってしまいます。
不良少年と呼ばれ、若くして亡くなった弟への、深い愛惜の情をこめた作品です。なお、幸田文は文豪・幸田露伴次女でした。
おとうと (新潮文庫 こー3-3 新潮文庫) [ 幸田 文 ]
|
[※5]新海誠『小説 言の葉の庭』
靴職人を夢見る高校生の孝雄。彼には「雨の朝は学校をさぼり、公園の東屋で靴のスケッチを描く」と言う習慣がありました。
ある雨の朝、孝雄は公園で謎めいた女性、雪野と出会います。
映画『君の名は。』をはじめ、美しく、緻密な風景描写が特徴の作品を手がけたことでも知られる新海誠監督。
2013年に公開された、アニメーション映画『言の葉の庭』で描かれた、雨の日に出会った男女による、ひと夏の物語です。
その作品を、監督自らが小説化した『小説 言の葉の庭』では、映像作品と同じく、雨の描写が色彩豊かに綴られています。
|
究極を考えさせる読書。
それは釣りの帰り際でした。びっしょりになったウェディングシューズを脱いだ時、
今日は5時間も渓流を歩き回ったのに坊主!と思った時でした。
そんなに釣りバカにならなくても良いのではと、自分を叱ると、
ふいに読書好きが行き過ぎた、ミルゲ・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』[※6]に想いを馳せたのです。
帰りの車中で頭に浮かんだのは、『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』[※7]の一冊でした。
[※6]ミルゲ・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』
『ドン・キホーテ』は、スペインの作家、ミルゲ・デ・セルバンテスの書いた小説です。
当時のヨーロッパで流行していた、騎士道物語が大好きな、下級貴族の主人公は、村の司祭と床屋を相手に、騎士道物語の話ばかりしていました。
やがて主人公の騎士道熱は、本を買うために、田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず、騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失い、
妄想に陥った主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」と名乗って、
痩せこけたロバのロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ、遍歴の旅に出かける物語です。
そんな、ラマンチャの男『ドン・キホーテ』を、皮肉屋のバーナード・ショーが、見事に言い現わしています。
「ドンキホーテは読書によって紳士になった。そして読んだ内容を信じたために狂人となった。」
ドン・キホーテ 前篇1 (岩波文庫 赤721-1) [ セルバンテス,M. de ]
|
【抽出】
[※7]『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』
この本は1910〜1913年、イギリスのロバート・スコット大佐率いる探検隊が、
ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンと、南極点初到達を争い、敗れ去って死亡するまでの過程を記録した歴史的大作です。
著者アプスレイ・チェリー=ガラードは、スコット隊の一員だった当時24歳の動物学者で、
タイトルの『世界最悪の旅』は、彼らがペンギンの生態を調査するため、南極で行った冬季ソリ旅行を指しています。
この本は、一般読者を対象としたドキュメンタリーや、ノンフィクションのような読み物ではなく、
あくまでも一隊員、一学者としての報告書なのです。
にもかかわらず、この本が、読む者を惹きつけてやまないのは、極限状況における息詰まるような緊張感、
読んでいるだけで、鳥肌が立ちそうな極寒の地の過酷さが、実に生々しく伝わってくるからです。
世界最悪の旅 スコット南極探検隊 (中公文庫) [ アプスレイ・チェリー・ガラード ]
|
森本哲郎「万里の道、万巻の書」の言葉。
森本哲郎さんは、元朝日新聞の記者で、世界中を飛び回り、多くの紀行文を掲載しました。
その後、作家となり魅力ある著書を、多数出版しています。
森本哲郎さんの「万里の道、万巻の書」の言葉が好きです。
たくさん旅をして、多くの国を巡ることは、多くの書籍を読むことに匹敵する。
多くの書籍を読むことは、たくさんの旅をするようなもの。
だから、読書をすることは、素晴らし知識の宝庫を探し当てる事だと、教えて呉れました。
森本哲郎さんの著書の中でも、古き良きパリの情景を書いた、素敵な文章があります。
それは、作家、森本哲郎さんの『僕の旅の手帖』のプロローグの冒頭に出てきます。
|
森本哲郎さんの『僕の旅の手帖』
「それは、あたたかく、清潔で、親しみのある気持ちいいカフェだった」とヘミングウェイは書いている。
彼は、そのカフェに入ると、コート掛けに古いレインコートをつるし、帽子掛けに、くたびれて色のさめたフェルト帽をかけ、さて、一隅に席を占めてカフェ・オ・レを注文した。
そして、ギャルソンがそれを運んでくると、ポケットからノートを取り出し、鉛筆で小説の草稿をかきはじめる。
彼がすわっているのは、パリ、『サン・ミシェル広場のいいカフェ』である。
時代は1920年代。とつぜん、美しい女が雨に濡れて入ってくる。彼女は入口近くにすわり、だれかをじっと待っている。
ヘミングウェイはそれをそっとながめる。そしてノートに書きつける。
「美しいひとよ。私はあなたに出会った。あなたは、いま、私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、
また、私が、もう二度とあなたに会えないにしても、あなたは私のものだ。パリも私のものだ」
フランスの、良き時代を表した文章です。
|
【抽出】
サンクトペテルブルグでの読書。
サンクトペテルブルクに到着したのは、モスクワで国内線に乗り換えて、深夜の0時を既に回っていました。
ホテルまでのバス移動で驚いたのは、深夜にも関わらず、
サンクトペテルブルクの真夜中の幹線道路で、凄い数の車が、行き交っていたからでした。
いくつかの運河を超えると、18世紀の街並みが出現しました。
そこで急に森鴎外の『舞姫』[※8]と、ドストエフスキーの『罪と罰』[※9]が交錯したのです。
『舞姫』は、森鴎外が留学した独逸が舞台ですが、後に主人公はロシアに向かいます。
夜の闇と、サンクトペテルブルクの古いの街並みが、そう思わせたのかもしれません。
|
【抽出】
[※8]森鴎外『舞姫』
森鴎外はドイツに留学し、彼自身の、その経験を生かした小説『舞姫』を執筆します。
物語は、東大法学部を首席卒業して「某省」に就職した主人公の豊太郎は、「官長」の絶大な信頼のもと、
3年後に長年の望みが叶い、ベルリンに留学します。
そこで、エリスと言う貧しいドイツ人少女と知り合い、二人は内縁関係を結ぶことになりました。
そのことが官長に知れ、主人公の豊太郎は、免職処分を受けることになりますが、
ピンチで悩んでいたところ、上司の天方大臣がベルリンにやって来ました。
旧友の相沢が大臣秘書官として同行しており、彼の援助で、大臣の知遇を得た豊太郎は、
その年に、ロシアに向かう大臣に、通訳として随行します。
そして、大臣の勧めによって、妊娠中のエリスをベルリンに残したまま、単身日本に帰国してしまうのでした。
|
【抽出】
[※9]フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』
ペテルブルク大学の苦学生だったラスコーリニコフは、学費滞納のため除籍となってしまいます。
そこで彼が思ったのが、下宿のすぐ側で金貸し業を行なっている、守銭奴の老婆の存在でした。
なぜ有能な自分の前途が、このような為に閉ざされる中、守銭奴の老婆の様な人間の屑が、のうのうと生きているのかと嘆き、
彼女を殺し、代わりに自身で富を有効活用する方が、余程世のためになると考え、
非凡な我にこそ、その資格があるのだと考えたのです。
妄執に囚われたラスコーリニコフは、頭の中の声が命ずるままに老婆を手に掛けますが、
その場に居合わせた、彼女の妹まで殺してしまうのでした。言わずと知れたロシア文学の名作です。
罪と罰(上巻)改版 (新潮文庫) [ フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス ]
|
アンコールワットでの読書。
シュムリアップ国際空港から、ホテルへの道沿いで、ペットボトルに入れられたガソリンが、道端に並べて売られていて、
日本の常識が、海外で通用しない事を痛感した。
162年前までジャングルの中で忘れられたアンコールワットは、
密林に覆いつくされ、人を寄せ付けない、神秘的な遺跡だったのです。
そして、何処へ行っても、お土産品を売る子供たちにが、観光客につきまとい、カンボジアの明日を考えさせられる旅でした。
この旅に持参した文庫本は、沢木耕太郎の『深夜特急』[※10]と、カミュの『ペスト』[※11]の2冊でした。
妄想トラベラー アンコールワットの街 シェムリアップを歩く アンコールワットの街 シェムリアップを歩く【電子書籍】
|
【抽出】
[※10]沢木耕太郎『深夜特急』
沢木耕太郎の紀行小説『深夜特急』は、1986年に第1夜が刊行され、既に34年経ち、
現在では新潮文庫で、6冊に分冊化される形で出版されています。
イギリスのロンドンまでを、バスで一人旅をする為、日本を飛び出した26歳の主人公「私」の物語です。
仕事をすべて投げ出して旅に出て、途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、
思わぬ長居をしてしまう、筆者自身の実話に基づいた、貧乏旅の魅力を最大限に引き出した作品です。
ただあてもなく異国の地を彷徨い、見るものすべてが新鮮で、日本の常識など当然通用しない、
危険と隣り合わせの、行き当たりばったりのこの旅が、なぜか魅力的に映るのです。
深夜特急2 マレー半島・シンガポール (新潮文庫) [ 沢木 耕太郎 ]
|
【抽出】
[※11]カミュ『ペスト』
物語の舞台は、北アフリカのオラン市。医師のリウーが、不可解に死んでいる鼠の死体を発見します。
やがてペストが原因だと判明し、熱病者が続出し町はパニックに陥ります。
外部と遮断され、脱出不可能な状況の人間たちが取る行動とは。
不条理な運命に翻弄される人間を、克明に描いた傑作で、
今まさに、現代社会が直面している、世界的パンデミックを彷彿とさせる作品です。
|
【関連】
青森県津軽の旅での読書。
紅葉のつづれ織りの奥入瀬を抜け、十和田湖で真っ赤に燃えるような山々を堪能した後、
浅虫温泉に着いた頃には、夜のとばりが降りていた。
平安時代に発見されたこの温泉は、布を織る麻を蒸すためだけに使われて来て、
温泉名も麻を蒸すことに由来し、「麻蒸」が転じて「浅虫」になったと言われている。
青森に来たからには、明日は太宰治記念館に立ち寄りたいので、
風呂上がりには持参した太宰治の『津軽』[※12]を傍らに、地酒を飲むことにした。
少しうたた寝したようで、酔いが覚めると、川村元気さんの『神曲』[※13]も、良いのではないかと思い始めていた。
|
[※12]太宰治『津軽』
古沼のような“家”から、どうして脱出するか。更に自分自身から如何にして逃亡するか。
しかし、こうした運命を凝視し、懐かしく回想するような刹那が一度、彼に訪れました。
それは昭和19年、津軽風土記の執筆を依頼され、3週間にわたって津軽を旅行した時です。
こうして生れた本書は、太宰の作品のなかで、特異な位置を占める佳品となっています。
|
【抽出】
[※13]川村元気『神曲』
川村元気さんの『神曲』は、週刊新潮での連載をまとめたもので、
家族に起きた凄惨な事件をきっかけに、神を信じた妻と、神を信じ切れない夫、信心と不信の間で揺れる娘、
それぞれの視点からの物語を、イタリアの詩人ダンテの代表作『神曲』同様に、3篇構成で描かれています。
川村さんは子どもの頃から年に数回、青森県へ足を運んでいて、
この小説のために、青森県を訪れ津軽、県南、下北など県内各所を取材しています。
「地域の固有名詞は出てこないが、取材した場所を使い切るくらい小説に織り込んだ」と語っているのです。
|
ホーチミンでの読書。
ホーチミンは、古くからベトナム経済の中心地として栄え、「東洋のパリ」と呼ばれていて、
フランス統治時代の影響を、色濃く残していました。
眩しい光の街で目を引いたのが、アオザイ姿の女子学生の可憐さでした。
この街では、午後になると決まって凄いスコールが降ります。
可愛い雑貨屋さんが並ぶ街路のカフェで、フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』[※14]を読み、
雑貨屋さんで、お土産のブックカバーを求めました。
このカバーに似合う本はきっと、サン=テグジュペリの『星の王子さま』[※15]じゃないかと、ホーチミンで思ったのです。
ハノイ発夜行バス、南下してホーチミン ベトナム1800キロ縦断旅 (幻冬舎文庫) [ 吉田友和 ]
|
【抽出】
[※14]フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』
フランソワーズ・サガンは、18歳でデビューを飾って以来、一貫してフランス文学界のスターとして、様々な話題を振りまきました。
代表作の『悲しみよ こんにちは』は、その衝撃のデビュー作となります。
物語は、当時のサガン自身の心象が色濃く反映されています。
主人公セシルは17歳の少女で、父親は名うてのプレイボーイ。
気楽な生活を楽しんでいたセシルですが、父の再婚話に不安を感じてある計画を思いつきます。
しかし、そこには思いがけない結果が待っていました。
悲しみよ こんにちは (新潮文庫 新潮文庫) [ フランソワーズ・サガン ]
|
[※15]サン=テグジュペリの『星の王子さま』
『星の王子さま』は、世界的に有名な童話です。
作者のサン=テグジュペリは、パイロットで、この童話は、1943年にアメリカで発表されました。
サン=テグジュペリは幼少期より飛行士に憧れて、兵役に志願し陸軍飛行連隊に入隊、
軍用機操縦士として活躍し、退役後も民間飛行士として活躍しました。
物語の主人公であるパイロットの「ぼく」は、不時着したサハラ砂漠で、不思議な男の子に出会います。
その子供は自分を遠い星からきた王子だと言い、「ぼく」にこれまでの体験を語って聞かせるのでした。
王子さまとキツネの会話の中で、キツネに言わせた、
「大切なものは、目に見えないからね。」
この言葉は、この作品の中でも、象徴的な言葉となっています。
星の王子さま (新潮文庫) [ アントアーヌ・ド・サン・テグジュペリ ]
|
【抽出】
木曽路・馬籠宿での読書。
木曾路の馬籠にある「藤村記念館」に立ち寄った後、古い石の階段、格子戸、土壁、木製の提灯に沿って歩き、
馬籠宿の古民家の宿に着いた頃には、夕闇が迫っていた。
夕食は山菜料理に五平餅が添えられていて、山里のもてなしに舌鼓を打った。
闇に覆われた石畳の道に出ると、そこには日中の喧騒はなく、江戸期の趣を今も色濃く残した宿場町が、静かに佇んでいた。
路地のベンチに腰掛け、街灯の明かりの下で、島崎藤村の『夜明け前』[※16]の冒頭を読んだ。
すると、信州・松本から上京し、新宿・中村屋の創立者となった、相馬愛蔵・黒光夫妻の人生を描いた、臼井吉見の『安曇野』[※17]が読みたくなった。
さんぽガール ののさん 中山道馬籠宿編【電子書籍】[ のの ]
|
[※16]島崎藤村『夜明け前』
『夜明け前』は、江戸末期の幕末から、明治に入る動乱期を描いています。
そして、この小説の書き出しは、あまりにも有名な、「木曽路はすべて山の中にある」と言う一文から始ります。
木曽路は日本でも有数の宿場町で、徳川時代の根幹をなす交通産業そのものでした。
しかし、徳川の時代を支えた宿場町であった木曽路も、ペリー艦隊の黒船の来航を契機として、大きく揺らぐことになります。
黒船来航の噂は、当時の人々の間でも話題となり、交通の要所であった木曽路も、その例外ではありませんでした。
島崎藤村が『夜明け前』の中で、描きたかったものは何でしょう。それは、西洋化に戸惑う主人公の心境でした。
大政奉還によって、江戸幕府から政権は天皇へと戻されました。
西洋から新しい技術や文化が入って来て、人々の生活は大きく変化します。
その意味ではタイトル『夜明け前』の「夜明け」とは、「日本の西洋化」を意味しているのでしょう。
夜明け前 第1部 上 (新潮文庫 しー2-7 新潮文庫) [ 島崎藤村 ]
|
【関連】
[※17]臼井吉見『安曇野』
臼井吉見の大河小説『安曇野』は、新宿・中村屋の創立者、相馬愛蔵・黒光夫妻、
そして、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、信州安曇野に結ばれた若い群像を中心に、
明治から現代までの激動する社会、文化、思想をダイナミックに描く本格小説で、全5部作からなる大作です。
第1部は、“新しい女”黒光と、夫・愛蔵らの溌刺とした動きを追いつつ、新文化創造の鋭気みなぎる明治30年代を描いています。
相馬夫妻の「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」と言う気持ちが反映したのか、
新宿・中村屋には、明治の末から大正にかけて、美術、演劇、文学、その他広い分野にわたる、多彩な顔ぶれが集まるようになります。
相馬夫妻は、集まってきた人々に対して、多大な理解と惜しみない支援を送り続けます。
そして、この中村屋を舞台に、創業者とこれらの人々の間に繰り広げられた交遊の世界は、いつしか”中村屋サロン”と呼ばれたのです。
【中古】 安曇野 第1部 / 臼井 吉見 / 筑摩書房 [単行本]【ネコポス発送】
|
斑鳩の法隆寺での読書
法隆寺は東大門を境に、西院伽藍と東院伽藍に分かれ、
西院伽藍には五重塔をはじめとする、世界最古の木造建築が立ち並んでいた。
聖徳太子が、当時政治の中心地であった飛鳥の地を離れ、607年この地に斑鳩宮を造営したことで発展したのだ。
それは、遥か大陸の彼方の文化が、シルクロードを経てたどり着いた終着点だった。
そんな文化の反映は、法隆寺に仏教伝来の史跡として、残されていた。
斑鳩の旅に持参したのは、梅原猛の『隠された十字架―法隆寺論』[※18]と、和辻哲郎の『古寺巡礼』[※19]だった。
新装版 法隆寺 世界最古の木造建築 (日本人はどのように建造物をつくってきたか) [ 西岡 常一 ]
|
[※18]梅原猛『隠された十字架―法隆寺論』
歴史は藤原不比等によって、日本書紀に於いて偽造されたと言う。しかし、どうしても偽装しきれないものが残る。
その真実の隠された尻尾が、正に法隆寺ではないかとして、梅原猛は『隠された十字架―法隆寺論』で書いています。
古事記はオオクニヌシの鎮魂を、日本書紀は聖徳太子とその一族の鎮魂と、
聖徳太子を聖人に祭り上げることによる、仏教の促進とそれにより人々を引きつけるための、藤原不比等の戦略でした。
そして藤原氏の幸せを願うための興福寺と、聖徳太子と一族の鎮魂のための法隆寺を同時に建てる事により、
藤原不比等は安心感を覚えたのではないか、と梅原猛は分析しているのです。
|
[※19]和辻哲郎『古寺巡礼』
「大正7年の5月、20代の和辻哲郎は、唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺など、奈良付近の寺々に足を運んだ際に、
飛鳥・奈良の古建築・古美術に相対し、その印象を、若さと情熱をこめて書き留めた。
鋭く繊細な直観、自由な想像力の飛翔、東西両文化にわたる該博な知識が一体となった、
みごとな美の世界がここにはあると」、哲学者・谷川徹三は解説しています。
和辻哲郎は、西田幾多郎やハイデッガーなど、同時代の哲学者とも干渉しあいながら、
その終生をかけた仕事とは、倫理学の構築でした。
「人」ではなく、「人」と「人」の間、すなわち「人間=じんかん」の学として、倫理学を打ち立てようとしたのです。
|
英国流の釣りの読書
作家の開高健はルアーフィッシングが得意で、世界各地で釣りをし紀行文を発表した。
そんな彼がイギリスを訪ねて、初めてのフライフィッシングに臨んだ。
イギリスに行くと、まず最初に食べたいものとして、揚げたてのフィッシュアンドチップスだと語っていた。
そのフィッシュアンドチップスは、ニュースペーパーに包んで、提供されるのがイギリス流だが、
その新聞紙は、ディリー・テレグラフや、ガーディアンなどの、
クオリティーの高い一般紙ではなく、低俗な大衆紙やゴシップ紙が良いんだと、軽口を叩いていた。
開高健に思いを馳せ、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』[※20]を取り出すが、
フランク・ソーヤーの『イギリスの鱒釣り』[※21]もいいかと思った。
明日の釣りには、開高健の『私の釣魚大全』[※22]を持参しようと思った。
ライフ・イズ・フライフィッシング(シーズン1) [ 阪東幸成 ]
|
【抽出】
[※20]アイザック・ウォルトン『釣魚大全』
「The Complete Angler」『釣魚大全』は、世界で一番有名な、釣りの本です。
その作者は、アイザック・ウォルトンで、彼は生涯を賭けて『釣魚大全』を執筆し、60歳の時に刊行しました。
今から360年前に書かれたこの本は、300年以上のロングセラーを続けていて、
度々の戦争があるたびに、人々が心の拠り所にしたようで、その都度、売れ続けて来ました。
この本は、釣りの楽しみの、読み物であると共に、故事伝承や、随筆の要素が詰まった読み物です。
ですから、単純な、釣りのハウツー本として、内容を期待する人には、チョットそぐわないかもしれません。
しかし、奥深い釣りの散文に、心が洗われるような気がする本なのです。
そして、この本の巻末に書かれている「Study to be quiet」(静かなることを学べ)と言う言葉はとても有名で、重みがあります。
完訳釣魚大全(1) (平凡社ライブラリー) [ アイザック・ウォルトン ]
|
【抽出】
[※21]フランク・ソーヤー『イギリスの鱒釣り』
『イギリスの鱒釣り』は、リバーキーパー(川の管理人)として生きた、フランク・ソーヤーの手記です。
英国南部、エイヴォン川のほとりの、のどかな村で、鱒や水鳥を遊び相手に育ったソーヤーは、生涯、川とそこにいる生物たちを愛し、
リバー・キーパーとして、水生生物の観察者、フィッシングの実践者として、川辺の自然保護に、一生をかけた人物でした。
人と自然が、共に生きるための知恵を綴る、釣り文学の傑作と呼ばれが高く、
自然の巧さと、そこに人間が関わる厳しさを語っていて、今日のエコロジー問題にも、大きな示唆を与える一冊です。
フランク・ソーヤーの生涯—伝説の鱒釣り師/平河出版社/フランク ソーヤー 【中古】
|
[※22]開高健『私の釣魚大全』
JTBの雑誌『旅』の1968年1月号~12月号まで連載された『私の釣魚大全』です。
『輝ける闇』の執筆のために、何ヶ月となく部屋にこもったきりで、“足から力が抜けてクラゲみたい”になっていた開高健は、
釣りの旅を毎月やりませんかと言う『旅』編集部の誘いに、
体力の回復に、もってこいだと一も二もなくのっかり、それがきっかけで釣熱に侵されたのです。
翌1969年、開高健はアラスカを皮切りに、“釣りのできる国では釣りをし、
戦争をしている国では、最前線へ行く”と言う、和戦両様の構えの旅に出ます。
地球をほぼ半周した旅のうち、釣りの部分だけ抜き出して、
1970年1月から、約半年間『週刊朝日』に連載されたのが『フィッシュ・オン』です。
『私の釣魚大全』は開高健がまだ釣りの初心者だった頃の、
『フィッシュ・オン』はルアー・フィッシングの面白さにはまって、間もない頃の釣行記です。
|
瀬戸内海の船上での読書
横浜を出航したクルーズ船は、瀬戸内海を航行していた。
小豆島を通過した時、読んでいたのは、壺井栄の『二十四の瞳』[※23]で、小豆島は作者の故郷だった。
瀬戸は凪だったので、デッキから瀬戸の島々を眺めていると、
不治の病が見つかり、瀬戸内海のホスピス「ライオンの家」のマドンナに会うために、船に乗る主人公が物語の、
小川糸さんの『ライオンのおやつ』[※24]を思い出した。
何かおやつを食べようと、喫茶室へ向かった。スィーツは何がいいだろう。
瀬戸内海の猫が教えてくれた、だらりのらりと生きる術。【電子書籍】[ 瀬戸にゃん海製作委員会 ]
|
[※23]壺井栄『二十四の瞳』
「瀬戸内海べりの一寒村」を舞台に、女学校を出て赴任した女性教師と、
その年に小学校に入学した、12人の生徒のふれあいを軸に、
日本が第二次世界大戦を突き進んだ、歴史のうねりに否応なく飲み込まれていく中で、
教師と生徒たちの苦難や悲劇を通し、戦争の悲壮さを描いた作品です。
作者自身が、戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした、数多くの苦難と悲劇を描いたものです。
|
[※24]小川糸『ライオンのおやつ』
小川糸さんの『ライオンのおやつ』は、心に沁みる作品です。
それは、不治の病が見つかり瀬戸内海のホスピス「ライオンの家」へ向かう主人公が船に乗り、
年末の12月25日に、「ライオンの家」の代表の、マドンナに会うためにやってきます。
その道中で、マドンナはどんな天使なのかと想像したり、
5年前に父親に会ったことを思い出しながら、船上の人となっているところから、物語は始まるのです。
この本は2020年本屋大賞を受賞しました。
|
【抽出】
2020本屋大賞2位小川糸『ライオンのおやつ』本屋大賞とは何
神保町の古本屋街での読書。
JR中央線をお茶の水駅で下車し、明治大学を右手に見て坂を下りきると、そこが神保町の古本屋街。
この街には多くの作家や文人が訪れている。
無類の読書家で4万冊の書籍や雑誌を収集した、『ぼくは散歩と雑学がすき』[※25]の植草甚一は、
週に何回も神保街へ来ては、何件もの書店を巡り、抱えきれない程の本を買って、
馴染みの喫茶店で、買ったばかりの本を読んでいた。
司馬遼太郎は『竜馬がゆく』[※26]の執筆のために、神田神保町の古本屋街に行き、
そこで、複数の古書店から、ワゴン車1台分、当時の価格で1,400万円もの古書、古文書を購入して執筆にあたったのです。
[※25]植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』
植草甚一は1970年代に、当時の若者たちにサブカルチャーを発信し、若い世代から、絶大な支持をされていました。
彼は時間のある限り、神田神保町の古本屋街に通い詰めて、
複数の古本屋さんで、欧米のペーパーバックスや、欧米の雑誌を収集していました。
その本を両手に重そうに持って、馴染みの喫茶店に入ると、購入したての本を読むのが、常だったらしいのです。
そうして集めた本や雑誌が、世田谷区経堂のご自宅に、4万冊、ジャズのレコードが、4,000枚になっていたと言います。
そんな収集した本や雑誌の評論や、欧米文学の紹介、
そして、雑誌を切り抜いてコラージュを作ることを、得意としていたのです。
彼の死後、話題になったのが膨大な本の行方でした。
そんな中、4000枚のジャズレコードコレクションは、タモリさんが引き取って呉れたのです。
|
【抽出】
[※26]司馬遼太郎『竜馬がゆく』
坂本龍馬は、土佐脱藩の志士で、黒船来航に衝撃を受け、勝海舟に師事し、
軍艦を手に入れようと奔走、薩長同盟に尽力し、日本の近代化を見据えていました。
幕末の時代、交通手段は徒歩か馬、船ぐらいでしょう。
そんな中で、龍馬は東奔西走しています。すごい行動力です。更に、交渉力が凄すぎます。
「歴史上好きな人物調査」で、坂本龍馬と織田信長は、常に上位を二分しています。
彼らは、戦国時代と幕末を代表する英雄です。
そして、私たちは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に、あまりにも影響を受けていて、
小説の世界と歴史上の龍馬を、混同しているのかもしれません。
|
【抽出】
百済・高句麗の旅での読書
6~7世紀、仏教文化の花を咲かせ、日本に仏教が伝来した、百済・高句麗の源流を求める旅で、
釜山から出発した観光バスは、凄い異臭を放っていました。
その原因は20分ほどバスが走り、止まった先にお土産店にありました。キムチを持ってバスに乗り込んで来た販売員は、
「これが本場のキムチ」と車内でキムチ販売し始め、多くの乗客が買い求めたのですが、これが車内に籠った匂いでした。
そして、私が求めたキムチが、不安を増幅させた。
バスの車窓からは、緑の稲がたなびく田園地帯が広がり、その景色は、日本の昭和を彷彿させる光景でした。
そこで、思い浮かんだのが、画家・安野光雅 の『旅の絵本 』[※27]と、長塚節の長編小説『土』[※28]の本でした。
そして、お土産のキムチは3泊4日の旅行中、スーツケースの中で発酵を続け、ビニール袋に入ったキムチはパンパンに膨れ上がり、破裂するようで不安だったのです。
|
[※27]安野光雅 『旅の絵本』
画家の安野光雅さんは、島根県津和野町の出身です。彼は、子供の頃より、画家になる夢を抱いていました。
山口師範学校卒業後、小学校教師を経て、1960年(昭和35)イラストレーターとなります。
そして、エッシャーの絵に惹かれ、たくさんの小人を登場させた「だまし絵」手法の絵本『ふしぎなえ』(1968)で注目を集めたのです。
美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を生み出しました。
原色や派手な色をほとんど使わない、淡いタッチの色調の水彩画で、
細部まで書き込まれながらも、落ち着いた雰囲気の絵を描く事を得意としていました。
その絵は、日本を始め海外の牧歌的な風景を多く描き、ファンを魅了したのです。
|
[※28]長塚節『土』
明治時代の近代文学が発展する中で、異色の作家が長塚節です。名前の節は「せつ」ではなく「たかし」と読みます。
茨城県に生まれ、そのド田舎の農村の風景を、見事に小説で写生した名作『土』を書いた人物です。
農民文学の代表作とも呼ばれるこの小説は、何と、全編茨城弁の文章で書かれていています。
彼は、文豪・夏目漱石にその実力を認められた、農民文学の先駆者でした。
しかし、わずか35年の人生で、正岡子規の唱えた「写生」の手法を自分のものにし、
なんと方言(茨城弁)で、会話を展開させるという方法で名作『土』を書き上げました。
全編茨城弁での会話が繰り広げられる、この小説『土』は、旧字旧仮名遣いで記されいて、
現代の私たちが読むには、やや難解なのです。
|
能登半島での旅の読書
能登半島の漁村を廻った後、泊まった温泉宿の仲居さんから、
この辺の温泉は塩分濃度が高いので、長湯をすると、湯あたりをすると伝えられた。
それで、早めに温泉から上がったのだが、ふらっと眩暈をしてしまい、暫く脱衣所で涼んでいた。
湯あたりが治まったので、テラスに上がり、暮れ行く日本海を眺めながら、落日を待っていた。
空は雲で覆われ、これでは夕日は無理かなと思ったりしていた。
その時読みたいと思ったのが、松本清張の『ゼロの焦点』[※29]と『砂の器』[※30]でした。
きっと日本海の荒波が、そう思わせたのかもしれません。
|
[※29]松本清張『ゼロの焦点』
『ゼロの焦点』(1959年刊)は、戦後の米軍占領期が生んだ「悲しい歴史」が、事件の背景にあります。
板根禎子は26歳。広告代理店に勤める鵜原憲一と、見合い結婚しました。
紅葉が盛りを迎えている信州から、木曾を巡る新婚旅行を終えた10日後のことです。
憲一は、仕事の引継ぎをして来ると言って、金沢へ旅立ちます。しかし、予定を過ぎても帰京しない憲一。
禎子のもとに、もたらされたのは、憲一が北陸で行方不明になったという、勤務先からの知らせでした。
急遽金沢へ向かう禎子。憲一の後任である本多の協力を得つつ、憲一の行方を追うのですが、
その過程で彼女は、夫の隠された過去を、知ることになるのでした。
|
今こそ読みたい松本清張作品。読者ランキングベストテン!
[※30]松本清張『砂の器』
『砂の器』(1961年刊)は、東京で発生したある殺人事件で、序盤では、被害者の身元すら不明です。
そんな中で、手掛かりになったのが、関係者らしき男が口にした、東北弁訛りの「カメダ」と言う言葉でした。それは何を意味するのか?
その答えは「亀嵩(カメダケ)」という地名で、その所在地は東北……ではなく島根県!
実は東北弁と出雲弁は、イントネーションが似ている、というのが、重要なトリックになっています。
そして、この亀嵩は、被害者である元駐在さんが、勤めていた土地だったのです。
そして、その元駐在さんが、殺されなけらばならなかった、悲しい過去が明かされるのでした。
砂の器 上 (新潮文庫 まー1-24 新潮文庫) [ 松本 清張 ]
|
今こそ読みたい松本清張作品。読者ランキングベストテン!
ニッカウヰスキー余市蒸留所での読書
北海道余市にある、ニッカウヰスキー余市蒸留所は、石造りの工場が、歴史の重さを感じさせ、佇んでいた。
そこは、“日本のウイスキーの父”と呼ばれる、ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝が、自身のウイスキーづくりの理想郷を求め、たどり着いた場所だった。
竹鶴政孝は、スコットランドに似た冷涼で湿潤な気候、豊かな水源と、凛と澄んだ空気がそろった場所こそが、理想のウイスキーづくりには欠かせないと考え、
さまざまな候補地の中から、小樽の西、積丹半島の付根に位置する余市を選んだのだ。
日本のスコットランドと称される、ニッカウヰスキーの聖地は、新緑に包まれていた。
工場脇に佇み開いた本は、川又一英の『ヒゲのウヰスキー誕生す』[※31]だった。
そして鞄の中には、伊集院静の『琥珀の夢』[※32]と、村上春樹の『風の歌を聴け』[※33]を忍ばせていた。
ニッカウヰスキー 竹鶴 ピュアモルト 700ml 43度 箱無し ブレンデッドモルト 余市蒸溜所 宮城峡蒸溜所 ジャパニーズウイスキー ニッカウイスキー アサヒビール 日本【1本】
|
[※31]川又一英『ヒゲのウヰスキー誕生す』
いつの日か、この日本で、本物のウイスキーを造ると言う強い意思を持ち、大正7年、
ひとりの日本人青年が単身スコットランドに渡りました。
竹鶴政孝、24歳。異国の地で、ウイスキー造りを学ぶ彼は、やがて生涯の伴侶となる女性リタと出会います。
周囲の反対を押し切って結婚した二人。竹鶴は度重なる苦難にも負けず夢を追い、リタは夫を支え続けました。
1923年(大正12年)に、スコッチの本場スコットランドで、ウィスキー蒸留の経験して来た竹鶴政孝を、
サントリーの創業者・鳥井信治郎は、山﨑蒸留所の工場長として迎えます。この時、鳥井信治郎44歳、竹鶴政孝29歳でした。
そしてついに、北海道余市に地で、ウイスキー作りを始めたのです。“日本のウイスキーの父”の情熱と夫婦の絆を描く作品です。
ヒゲのウヰスキー誕生す(新潮文庫)【電子書籍】[ 川又一英 ]
|
[※32]伊集院静『琥珀の夢』
明治12年1月30日の夜明けに、大阪船場、薬問屋が並ぶ道修町に近い釣鐘町で、一人の男児が産声を上げました。
それは両替商、鳥井忠兵衛の次男信治郎で、後に日本初の国産ウイスキーを作り、今や日本を代表する企業、サントリーの創業者の誕生でした。
次男坊の宿命で、信治郎は13歳で、薬種問屋小西儀助商店に丁稚奉公に出されます。
小西商店では薬以外に、ウイスキーも輸入して扱っていたが、小西儀助は、国産の葡萄酒造りを考えていました。
しかし当時の葡萄酒は、アルコールに香料など様々なものを混ぜ合わせた合成酒です。
そこで信治郎は夜毎、儀助と共に葡萄酒造りに励むのでした。
|
サントリーウィスキー創業者の名言。「やってみなはれ」
[※33]村上春樹『風の歌を聴け』
小説家・村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』は、1979年に講談社より、単行本化されました。
当時の村上春樹さんと同じく、1978年に29歳になった「僕」が、1970年8月8日から8月26日までの18日間の物語を記す、という形式をとっています。
海辺の街に帰省した「僕」は、友人の「鼠」とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送ります。
2人それぞれの愛の屈託を、さりげなく受けとめてやるうちに、「僕」の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていくのです。
青春の一片を、乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作で、群像新人賞受賞しました。
この小説の中に、ジムビームに関する、こんな文章があります。
「その夜、鼠は一滴もビールを飲まなかった。これは決して良い徴候ではない。そのかわりに、ジム・ビームのロックをたてつづけに5杯飲んだ。」
|
浅草「駒形どぜう」での読書
浅草寺でお参りを済ませた後に必ず行くのが、1801年創業、浅草で200年続く、どじょう料理の「駒形どぜう」。
江戸時代の代表的な商家造り、出し桁造りを用いていて、当時、大名行列を見下ろさないように、通り側の二階には窓がない。
暖簾をくぐると広がるのは、1階の入れ込み席、そこは江戸の風情をそのままに残し、格子の硝子窓から緑の中庭が見通をせる。
名物の「どぜう鍋」は、鉄鍋にどじょうが並び、木箱から小口切りの葱を高くのせて、山椒を掛ければ出来上がり、絶品だ。
明治時代の文人墨客たちも、鍋を突いては、文明開化と声高に叫んでいたのだろうか?
この空間には、二葉亭四迷の『浮雲』[※34]と、樋口一葉の『たけくらべ』[※35]が良く似合う。
Tokyo Cherry Blossom 東京の桜 〜浅草・上野〜【電子書籍】
|
[※34]二葉亭四迷の『浮雲』
『浮雲』の特徴として挙げられるのは、話し言葉で小説を書くと言う「言文一致体」です。
それまでの時代にはない文章表現を作り出した、近代小説の先駆けとしても有名です。
「二葉亭四迷」というペンネームは、坪内逍遙の名前を借りて出版したことに対して「くたばってしめえ」と、自身を罵ったことに由来しているのだとか言われています。
物語の主人公は、事務官として働いている内海文三です。
文三は下宿先で、従姉妹のお勢に英語を教わるうちに好意を抱きますが、仕事中も彼女のことを考えるようになり、とうとう事務官をクビになってしまいました。
そんな彼に対し、叔母のお政は冷たい態度で接するようになり、ついにはお勢からも、彼の理想主義的な態度に嫌気がさして、疎まれる事態になります。
一方で、文三の元同僚で、容量がよく、出世街道を進んでいた本田は、たびたび下宿先に現れ、お勢と親密になっていくのです。
この作品の最大の魅力である写実的表現で、主人公の三角関係に、葛藤する繊細な気持ちが表現されています。
|
[※35]樋口一葉の『たけくらべ』
樋口一葉の『たけくらべ』は短編小説で、彼女は貧しい生活を送りながら、わずか1年半で、いくつもの作品を発表しました。
しかし24歳という若さで肺結核を患い、創作活動を続けることを、断念せざるを得ませんでした。
『たけくらべ』は、吉原で暮らす子どもたちの物語です。美登利、信如、正太郎の3人が、主なの中心人物です。
主人公の美登利は年齢14歳です。近所の子供たちの中では姉のような存在です。吉原の売れっ子遊女を姉に持っていることから、気前もいいし性格も勝気です。
信如は僧侶を父に持つ15歳の少年。真面目で内向的で、生臭坊主の父を疎ましく思っています。
正太郎は金貸しの息子で、喧嘩っぱやくて、大人びた言動の13歳の少年ですが、美登利を慕っています。
作品の見どころは、こうした子どもたちの切ない成長でしょう。
特に美登利と信如は、子どもらしい、冷やかしが原因で距離が離れてしまいますが、ある出来事をきっかけに、
お互いの心が揺れ動く様子が描かれます。
|
ホテルミラコスタでの読書
宿泊したホテルミラコスタは、イタリアンクラッシックを、コンセプトにしたホテル。
翌朝、部屋の窓から、人けの無いパーク内を見下ろすと、大勢のゲストたちが来る前の、ひと時の静寂を、独り占めしていた。
窓越しからメディテレーニアンハーバーの入り江の向こうに、ミステリアスアイランドにそびえる、プロメテウス火山が見える。
船舶が佇む、静かな入り江の彼方から、ウミカモメが飛来し、ショーボートの帆柱に止まると、朝の光がその翼を照らした。
それは、ウォルト・ディズニーが、夢の王国を構想した「夢を叶える場所」だった。
鎌田洋さんの『ディズニーそうじの神様が教えてくれたこと』[※36]と『プーと大人になった僕』[※37]を思い出していた。
東京ディズニーリゾートシンデレラ城夢と魔法の100 TOKYO Disney RESORT.Photography Project Imagining the Magic
|
[※36]鎌田洋さんの『ディズニーそうじの神様が教えてくれたこと』
ディズニーリゾートでは、従業員をキャストと呼び、ゲストへのディズニーの「おもてなし」を、教えてくれた本があります。
それが、鎌田洋さんの『ディズニーそうじの神様が教えてくれたこと』シリーズです。
鎌田洋さんは、1950年宮城県生まれで、商社、ハウスメーカーを経て1982年に開業前の東京ディズニーランドに入社し、教育部門の部長代理を務めた方です。
CS(顧客満足)と、ES(従業員満足)を目指し、パーク清掃の基礎を、築いた人です。
彼はどうしたらキャスト(従業員)が、主体的に働いてくれるのかを考えて、
ウォルト・ディズニーが、完全主義者であった事から、妥協しない、掃除の仕方を考えたのです。
|
[※37]『プーと大人になった僕』
少年クリストファー・ロビンが、親友のくまのプーや仲間たちに、別れをつげてから20数年。
大人になったクリストファーは、妻子と共にロンドンに住み、仕事漬けの毎日を送っていました。
ある時家族と過ごす予定だった週末に、仕事を任されます。会社と家族の板挟みに悩む彼の前に、くまのプーさんが現われます。
そこで、プーさんから一緒に仲間を探して欲しいと言われます。
クリストファーは、渋々ながら子ども時代を過ごした〈百エーカーの森〉に行き、
ピグレットや、イーヨーなど、かつての仲間たちとも再会したのです。
そして、彼は忘れていた、喜びをとり戻せるのだろうか?
プーと大人になった僕 MovieNEX [ ユアン・マクレガー ]
|
モスクワの高速道路で気になった読書
それは週末のこと、モスクワから郊外に向かった観光バスは、高速道路で大渋滞にあった。
その理由を尋ねると、ロシア人は週末は郊外の別荘で、家族と一緒に過ごすことが習慣のようで、週末になると、郊外へ向かう道路が大渋滞するのだ。
それは「ダーチャ」と呼ばれる小ぶりの別荘で、家庭菜園付きの小屋みたいなものらしく、
一般のサラリーマンでも、多くの人が持てるようなものだ。
バスが1時間ほど走ると、高速道路の両側に「ダーチャ」が無数に並ぶ光景が出現した。
郊外のレストランで、ロシア料理のボルシチや、ピロシキなどを堪能した。ウォッカは怖いのでビールにしておいた。
帰りのバスでモスクワを舞台にした、イワン・ツルゲーネフの『父と子』[※38]と、
ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』[※39]の事が、気になり出していた。
[※38]イワン・ツルゲーネフ『父と子』
大学を卒業した息子のアルカージーの、帰省を心待ちにしていたのは、地主のニコライ・キルサーノフでした。
しかし、帰郷に同行した親友バザーロフの、芸術も宗教も無意味と退ける、ニヒリズムにすっかり染まりきった息子に、親の彼は戸惑いを隠せませんでした。
それでも息子らの将来性に目を細めていたキルサーノフ夫妻でしたが、ついに旧世代と新世代間の確執は広がり、決闘にまで発展してしまうことに…
この背景には、1840年代に主流であったロマン主義と、
1860年代に時勢に乗って台頭した、功利主義世代間の対立を描いたとされています。
「親世代と子世代間の確執」と言う、普遍的なテーマです。
【中古】 父と子 新潮文庫/イワン・ツルゲーネフ(著者),工藤精一郎(訳者) 【中古】afb
|
[※39]ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
没落した資産家一家の一人息子、ユーリィ・ジバゴは、幼い頃に両親を失い孤独の身となりますが、
親類縁者の庇護で、医者を目指しながら育ちます。
そんな彼の人生と度々交錯するのが、美女ラーラの影でした。
第一次世界大戦後、ロシア革命のうねりが人民を襲う中で、二人はついに、衝撃の邂逅を果たすのです。
主人公のジバゴは、ただ静かに、誰にも邪魔される事なく、美しい詩を書きたいだけだったのに、
そんなちっぽけな個人の夢ですら、叶えられず、ロシア革命の嵐が吹き壊してしまうのでした。
ドクトル・ジヴァゴ [ ボリス・レオニードヴィチ・パステルナーク ]
|
南の島での休日の読書
初めて左ハンドルに乗ったのは、南の島でのレンタカーだった。
始めのうちは右側通行に緊張したが、10分も運転していると慣れて来たが、さすがに、交差点で左折する際は、ド緊張した。
海岸沿いの入り江のビーチは穏やかで、空は曇天だったが、南国の紫外線は強く、やわな肌は赤くなり出していた。
ホテルのコテージから、夕食の野外レストランへ歩いて行くと、数10匹の野良犬が、後をつけて来て恐怖心が走った。
ポリネシアンダンスを見ながら、森村桂の『天国にいちばん近い島』[※40]と、ロアルド・ダールの『あなたに似た人』[※41]~「南から来た男」を考えていた。
|
[※40]森村桂『天国にいちばん近い島』
この本は、昭和41年(1966年)に発刊され、200万部を超える大ベストセラーとなり、今なお読み継がれている名作です。
著者に森村桂が「ずっとずっと南の地球の先っぽに、天国にいちばん近い島がある」という父親の話を聞いて、
貨物船に便乗してフランス領“ニューカレド二ア”に旅をする、感動的な物語です。
当時、“天国にいちばん近い”南の島の楽園を夢みて、心を熱くした読者は少なくない筈です。
いまでも天国にいちばん近い島 物語と写真で甦るニューカレドニア心の旅【電子書籍】[ 森村桂 ]
|
[※41]ロアルド・ダール『あなたに似た人』~「南から来た男」
夕暮れ時の、ジャマイカの海辺のホテルのプールサイドでパナマ帽を被った、南米から来たらしい金持ちそうな男が現れます。
そこへ、アメリカ軍の訓練生の若い男がやって来ます。若い男はライターを盛んに自慢すると、
パナマ帽の男が、このライターを10回連続で点火出来たら、自分の新車のキャデラックを差し上げるが、
1回でも失敗したら、あなたの小指を1本、私にくださいと言ったのです。
賭けが始まいました。1回目は成功、2回目も成功、3回目と進み… …、8回目に進んだところで、
パナマ帽を被った、金持ちそうな男の妻が、「バカなことは止めなさい!」と、止めに入り、賭けはお流れとなったのです。
そして、若い男が奥さんの、その手を見ると……。
あなたに似た人(2)新訳版 (ハヤカワ・ミステリ文庫) [ ロアルド・ダール ]
|
カズレーザーおすすめ本『あなたに似た人』~南から来た男。
京都・龍安寺での読書
京都はいい。煌びやかな金閣寺、静寂な銀閣寺、でも龍安寺は格別だ。そこは京都の古都を感じさせる空気が流れている場所。
龍安寺の石庭の歴史は約520年。応仁の乱で寺院が焼失した後、1499年に方丈を再建した際に、石庭も築造されたそうだ。
「枯山水」の庭で心を静め目を瞑れば、そこに、川のせせらぎや、世界や宇宙までもを、感じさせる禅の世界が現われる。
庭の「砂紋」は独特の空気感を漂わせ、わびさびの世界を感じる。ここでは、お堂の縁側に座って鑑賞するのがおすすめだ。
この場所で読みたいのは、川端康成の『古都』[※42]と三島由紀夫の『金閣寺』[※43]が、いいんじゃないかと思った。
|
[※42]川端康成の『古都』
主人公は、京都の由緒正しい呉服屋の一人娘である佐田千重子。両親に愛されながら育った彼女だが、彼女は実子ではなかった。
彼女は自分が捨て子なのではないかと、悩んでいまいした。
5月、千重子は自分とそっくりな娘を見かけます。そして、7月の祇園祭の夜、彼女は八坂神社でその娘を再度見つけたのです。
苗子と言うその娘は、千重子のことを見つめ、「あんたは姉さんや」と言ったのです。
ふたりは双生児で、姉の千重子だけが、生まれて間もなく呉服屋の前に捨てられたのでした。
しかし互いに20歳となった今、苗子は杉林で労働する娘であるのに対し、千重子は呉服屋の、教養ある娘となっていたのです。
古都 (新潮文庫 かー1-16 新潮文庫) [ 川端 康成 ]
|
[※43]三島由紀夫の『金閣寺』
『金閣寺』は昭和31年(1956年)に雑誌『新潮』で連載され、その後、単行本として出版されました。
京都・鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿「金閣」を、学僧が葛藤の末に放火すると言う、ショッキングなストーリーです。
これは、昭和25年(1950年)7月2日に、実際に起きた事件が題材になっていて、三島由紀夫の代表作とも呼ばれています。
その事件は、昭和25年(1950)7月2日。金閣寺を放火した犯人は、重度の吃音に、幼い頃から苦しみ、
「美に対する嫉妬」「社会への復讐」を、放火の動機として供述していたそうです。
三島由紀夫の『金閣寺』の主要なテーマは、この「絶対的な美への嫉妬」です。なぜ、その犯人は金閣に嫉妬したのでしょうか。
|
三島由紀夫『金閣寺』のテーマは、絶対的な美への嫉妬!
北鎌倉ぶらり散策での読書
夏目漱石の『こころ』で、主人公が先生に出会ったのは夏の鎌倉だ。源頼朝に思いを馳せ、湘南新宿ラインを北鎌倉で下車した。
北鎌倉は、鎌倉駅前ほどの喧騒はなく、日常が交錯していた。明月院の境内は、2500株の「あじさい寺」として名を馳せていて、
あじさいが咲き乱れる6月の参道は、夏の絶景の定番となり、鎌倉で最も賑わう参道だった。
北鎌倉の魅力は、古都に相応しい、静かで素朴な路地巡り。四季を感じながら、山里に点在する由緒ある寺院をひなが散策する。
古民家のカフェで、香り高きキリマンジャロを愉しむ。
小川糸の『ツバキ文具店』[※44]や、三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』[※45]が、読みたくなった。
|
[※44]小川糸『ツバキ文具店』
鶴岡八幡宮が名前の由来である主人公の鳩子は、鎌倉で小さな文具屋を営むかたわら、代書屋を営んでいます。
そこには初恋の人への近況報告から、友人への絶縁状、借金のお断り、天国からの手紙まで、幅広い代筆依頼が舞い込む。
身近だからこそ伝えられない、依頼者の心に寄り添う内、仲違いしたまま逝ってしまった、祖母への想いに気づいてゆくのです。
大切な人への想い、「ツバキ文具店」が、あなたに代わってお届けします。
|
[※45]三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』
『ビブリア古書堂の事件手帖』は、原作 三上延さん、漫画 交田稜さんで作られたコミックです。
三上延さんは鎌倉で育ち、藤沢市の中古レコード店、古書店でアルバイト勤務をします。
2011年に刊行を開始した『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズが、記録的ベストセラーとなったのです。
北鎌倉駅のほど近くに、ひそやかに佇む古書店「ビブリア古書堂」には、本にまつわる事件が持ち込まれます。
本の虫である栞子と、体質的に本が読めない大輔の名コンビが、鎌倉の街を駆けめぐりながら、問題を解決していきます。
大輔は、亡き祖母の遺品の中から出て来た、夏目漱石の『それから』に記された、著者のサインの真偽を、確かめようとする。
優れた洞察力と驚くべき推理力を秘めている栞子は、たちどころにサインの謎を解き明かし、
この本には、祖母が死ぬまで守った秘密が、隠されていると指摘するのです。
古書堂で働き始めた大輔に、栞子は太宰治の『晩年』の希少本で、謎の人物から脅迫されていると、打ち明けたのです。
その正体を探り始めた二人は、やがて知るのであった。
漱石と太宰の二冊の本に隠された秘密が、大輔の人生を変える一つの真実につながっていることを…。
ビブリア古書堂の事件手帖 〜扉子と不思議な客人たち〜(1) (メディアワークス文庫) [ 三上 延 ]
|
戦場ヶ原の森の中での読書。
いろは坂を登り切り、中禅寺湖を左手に見て、赤沼茶屋の駐車場に車を停めた。
釣支度を整えて、自然保護の木道を歩いて行くと、静かに流れる湯川が現われる。
大きな倒木が、川の中に横たわる、不思議な光景を目の当たりにする。その流れは森の中を流れて、ここが日本かと一瞬疑う。
鱒の泳ぐ姿を確認してキャストをするが、すぐ傍の木道を通る、観光客やハイカーが気になって、釣りに集中出来ない。
それでも、戦場ヶ原を流れる湯川は特別な川だ。明日は中禅寺湖で、ヒメマスを釣ろうかと考え始めていた。
往年の釣りの作品が頭に浮かんだ、それは、井伏鱒二の『川釣り』[※46]と、ヘミングウェイの『海流のなかの島々』[※47]だった。
[※46]井伏鱒二の『川釣り』
『川釣り』は、1952年(昭和27年)に、岩波新書から刊行され、釣りに関する、随筆や感想や紀行文などを書いたものです。
釣りの舞台として鮎釣りでは、伊豆の河津川、相模川、笛吹川など、釣り場を回想した、随筆や短編小説を集めた1冊で、
釣技には触れず、当時と渓流釣りでの出来事を、時にユーモアたっぷりに描かれています。
ヤマメ釣りでは狩野川、富士川の支流の釜無川や、下部川が釣り場となっていて、釣り好きにはたまらない作品です。
【中古】 川釣り 岩波文庫/井伏鱒二(著者) 【中古】afb
|
釣りのことわざ・名言から学ぶ釣りの時間と人生の歩き方。
[※47]ヘミングウェイの『海流のなかの島々』
『老人と海』を彷彿とさせるような、荒れ狂う大海での、カジキマグロとの、死闘を描いた作品です。
主人公と3 人の息子たちとの、溢れるばかりの生き生きとした島での生活は、ヘミングウェイの血なまぐささから外れていて、
ある種の牧歌的な作風なのか、と思う反面、やはりヘミングウェイの簡潔なスタイルに導かれている作品です。
この作品はヘミングウェイの死後に、妻によって集められ発表された遺稿の一つなのです。
海流のなかの島々 上 (新潮文庫 ヘー2-8 新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]
|
道後温泉での湯上りの読書
道後温泉本館は、日本最古と言われる、道後温泉のシンボルだ。外観からして、唯ものではないオーラを発している。
ここの温泉の一番の魅力は、なんと言っても、重要文化財に指定されながら、
現役の公衆浴場として営業を続け、時を超えた、不思議な空間を味わえることだ。
「神の湯」で入浴し、風呂上がりに2階の広間で、お茶とせんべいを頂く。
漱石も入浴したと言われる、道後温泉に思いを馳せる、ここなら、夏目漱石の『坊ちゃん』[※48]と、司馬遼太郎の『坂の上の雲』[※49]だろう。
[※48]夏目漱石の『坊ちゃん』
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」と言う有名な一文から始まるこの小説は、
愛媛県の松山に赴任した新米の、江戸っ子教師の「坊ちゃん」が主人公の痛快小説です。
この小説『坊ちゃん』は、1906年(明治39年)に、『ホトトギス』で発表されました。
小説の舞台は明治維新後で、東京では近代化が大幅に行われていましたが、
地方では、まだまだ保守的な考えや慣習が、色濃く残っていた時代だったのです。
赴任した中学校の生徒たちは癖ものだらけで、「坊っちゃん」が、蕎麦屋で天麩羅を四杯食べたこと、団子を二皿食べたこと、
温泉で泳いだことなどを冷やかし、初めての宿直では、寄宿生たちの嫌がらせに遭うのでした。
|
夏目漱石『坊ちゃん』無鉄砲な冒頭シーンが読書を誘う小説。
[※49]司馬遼太郎の『坂の上の雲』
「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」これは、『坂の上の雲』の冒頭部分です。
明治維新を成功させ、近代国家として生まれ変わった極東の小国・日本が、正に、新しい時代を向かえようとしていました。
時に世界は帝国主義の嵐が吹き荒れ、極東の端に位置する日本も、西洋列強の脅威から、無縁ではありませんでした。
しかし逆境の中にありながら、この誕生したばかりの小国・日本には、亡国の悲愴さを吹き払う、壮気があったのです。
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と、死闘をくりひろげた秋山好古。
東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った、弟の秋山真之。
そして、病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。
この三人を中心に、近代国家に仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、
その明治と言う時代を生きた、男たちの生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説です。
|
印象に残る小説の冒頭~読み返したい本の名文・一節・名言集
馴染みの蕎麦処での読書
蕎麦屋の暖簾を潜ると、板わさと天ざるを注文し熱燗を頼んだ。
蕎麦は二八がいいだの、十割そばに限るだの言うけれど、馴染みの店はいいもんだ。
蕎麦は奈良時代以前からあったが、粒のまま粥にしていたようで、現在の形状に近づいたのは江戸時代で、「蕎麦切り」と呼ばれていた。
昼間でも軽く酒が飲みたい時に、そば屋に行けば、文句を言われることなく楽しめたので、
江戸で人気が爆発的に高まったようで、今の自分と同じだ。
蕎麦は落語の題材に多く出るが、小説でも夏目漱石の『吾輩は猫である』[※50]や、池波正太郎の『鬼平犯科帳』[※51]にも登場している。
[※50]夏目漱石の『吾輩は猫である』
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓(とん)と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。」
物語は、中学校の英語教師である、珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、
珍野一家や、そこに集う彼の友人や、門下の書生たちの人間模様が、風刺的にかつ、戯作的に描かれています。
その中で、蕎麦が登場し、漱石は登場人物に、蕎麦の食べ方を説明しています。
「噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込むところが値打ちだよ」と綴っているのです。
|
明治の文豪、夏目漱石の名作に刻まれた珠玉の名言・言葉。
[※51]池波正太郎の『鬼平犯科帳』
池波正太郎は1923年(大正12年)、東京・浅草に生まれます。
下谷・西町小学校卒業後、株式仲買店に勤め、その後、海軍に入隊、横須賀の海兵団にいました。
戦後は、東京都職員となり、下谷区役所等に勤務するかたわら、
新聞社の懸賞戯曲に応募して、2年続けて入選、これを機に劇作家になったのです。
池波正太郎作品の中でも、『鬼平犯科帳』は、やっぱり面白い。
小房の粂八(くめはち)とか、野槌(のづち)の弥平とか、雨乞いの庄右衛門とか、ゆかいな名前の泥棒、いや盗賊が実にカッコいいのです。
「小石川の春日町に長崎屋勘兵衛という薬種問屋がある」。この一行で、物語の世界に引き込んでしまう、魅力が満載なのです。
食通でも知られていた池波正太郎は、
自身の書く時代小説に、江戸の町を舞台に、質や、蕎麦や、煎餅やなどの情景が、良く登場していました。
白魚と湯どうふの小鍋じたてとか田螺(たにし)と、わけぎのぬたで、熱い酒をちびり、なんて実においしそうです。
鬼平犯科帳 決定版(一) (文春文庫) [ 池波 正太郎 ]
|
「旅に行きたくなるおすすめ本!旅行気分に浸れる読書とは。」への7件のフィードバック
コメントは停止中です。