好きな本、心に残る本の名文・名言まとめ。
人生で読んだ本の中に、心に残る一節や冒頭の名文があります。
その言葉が何度となく頭の中を巡り、声に出して読んで見たくなることもあります。
そんな文豪や作家たちの、有名な心に残る言葉の、冒頭・名文・一節、名言などを集めて見ました。
目次。42選。
夏目漱石『草枕』
夏目漱石『坊ちゃん』
夏目漱石『吾輩は猫である』
夏目漱石『こころ』
森鴎外『舞姫』
森鴎外『雁』
島崎藤村『夜明け前』
シェイクスピア『お気に召すまま』
アルベール・カミュ『異邦人』
ヘミングウェイ『老人と海』
ヘミングウェイ『移動祝祭日』
森本哲郎『僕の旅の手帖』
清少納言『枕草子』
兼好法師『徒然草』
『徒然草』72段の一節 本のこと
『平家物語』祇園精舎
志賀直哉『城の崎にて』
川端康成『雪国』
三島由紀夫『金閣寺』
井伏鱒二『山椒魚』
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
沢木耕太郎『深夜特急』
村上春樹『ノルウェイの森』
村上春樹『羊をめぐる冒険』
村上春樹『海辺のカフカ』
芥川龍之介『羅生門』
芥川龍之介『蜘蛛の糸』
芥川龍之介『鼻』
城山三郎疎にして野だが碑ではない
太宰 治『斜陽』
太宰治『人間失格』
太宰治『走れメロス』
太宰治『富嶽百景』
永井荷風の『濹東綺譚』
梶井基次郎『檸檬』
司馬遼太郎『竜馬がゆく』の名言
司馬遼太郎『坂の上の雲』
コナン・ドイル『緋色の研究』
アガサ クリスティー『スタイルズ荘の怪事件』
小川洋子『博士の愛した数式』
住野よる『君の膵臓をたべたい』
三浦しをん『舟を編む』
夏目漱石の『草枕』冒頭部分。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
夏目漱石の名著「草枕」の冒頭の一節です。
全ての人は理屈を通す人か、情に厚い人か、意地っ張りな人かに、だいたい分類されるとしたら、 そのどれもが人の世では生きづらい。
つまりどんな人でも生きづらさを抱えながら生きているのですよ、という意味の言葉です。
「草枕」は「那古井温泉」(熊本県玉名市小天温泉がモデル)を舞台に、作者・漱石の言う「非人情」の世界を描いた作品で、
漱石の作品の中でも、特に有名な冒頭の一説です。
現代社会に、生きづらさを感じている人には、勇気を与えてくれる言葉でしょう。
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夏目漱石『坊ちゃん』の冒頭部分。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰こしを抜ぬかした事がある。
なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。
新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談(じょうだん)に、いくら威張(いばっ)ても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はやし)たからである。
小使(こづかい)に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼(め)をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云いったから、
この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」
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漱石の読者を引き込む無鉄砲さ。
この次は抜かさずに飛んで見せます。
おやじが、「二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか」って叱りますが、
坊ちゃんも、坊ちゃんで、「この次は抜かさずに飛んで見せます」と言う、軽妙な返事が、可笑しさと無鉄砲な雰囲気を醸し出していて、一気に物語の世界へ、読者を引き込みます。
明治時代の東京で、江戸っ子ならではの、テンポ良い掛け合いを出して、このシーンが、面白いところです。
そんなことがあって、「親譲りの無鉄砲」って言葉が妙に頭に残ります。これこそが「坊ちゃん」の人柄を、上手に醸し出しているのです。
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夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭。
『吾輩は猫である』の冒頭はこんな一節で始まりますよね。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓(とん)と見當がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。
吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然(しか)もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪(だうあく)な種族であつたさうだ。
此書生といふのは時々我々を捕(つかま)へて煮て食ふといふ話である。… …」
物語の語り手は、珍野(ちんの)家で飼われている雄猫です。 彼に名前はなく、自分のことを「吾輩」と呼んでいます。
生まれてすぐに捨てられた「吾輩」は、生きるために迷走しているうちに、珍野家にたどり着いたのです。
家主である中学の英語教師、珍野苦沙弥(くしゃみ)は変人で、
胃が弱く、ノイローゼ気味で、なにかと苦労が絶えない人物で、夏目漱石自身がモデルとされているのです。
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夏目漱石の『こころ』の冒頭部分。
私はその人を常に先生と呼んでいた。
「私(わたくし)は其人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書く丈で本名は打ち明けない。
是は世間を憚かる遠慮というよりも、其方が私にとって自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。
筆をとっても心得は同じ事である。余所々々しい頭文字抔(など)はとても使う気にならない。
私が先生と知り合になったのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であった。
暑中休暇を利用して海水浴に行った友達から是非来いという端書を受取ったので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。
私は金に工面に二三日を費やした。所が私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れと云う電報を受け取った。」
自分の生涯の先を歩いていて、その人の生き方を身近に感じられることは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。
そして、この冒頭を読むたびに、鎌倉に行って見たくなります。
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森鴎外『舞姫』エリスへの思いを絶った冒頭。
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌(かるた)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。」
《現代語訳》
「石炭を早くも積み終えた。中等室の机のあたりはたいへん静かで、電燈の光が晴ればれとしているのもむなしい。今夜は、毎晩ここに集まってくるカルタ仲間も「ホテル」に宿泊しており、船内に残っているのは私ひとりのみだからだ。」
冒頭に続く文章は、主人公がイタリアのブリンヂイシイの港で乗船し、日本に向かう客船内部の様子が描かれています。
当時ヨーロッパ航路と言うのは、東南アジア、インド、スエズ運河を経由し、地中海へ抜けて行きました。帰りはその逆です。
航海では、何回も寄港して水や食料、燃料を積まなければなりません。「石炭をばはや積み果てつ」の文章はこのためです。
主人公はこのサイゴンの寄港で、船を下りようとはしませんでした。長い船旅で、港へ立ち寄るのは、楽しみであった筈です。
なのに何故なのでしょうか。
それは、このサイゴンを出ると、次は日本です。つまり、もしもう一度、ヨーロッパのエリスの元へ帰りたいと思ったら、
サイゴンで下りて、ヨーロッパ行きの船へ、乗り換えればよいのですから、ここが最後のチャンスだったのです。
それがエリスとの、最後の別れだと言う意味だったのです。
森鴎外、本名は森林太郎は、東大医学部卒で陸軍軍医でした。陸軍派遣留学生として、ドイツで4年間過ごしました。
その時経験した、ドイツ人女性との恋愛を描いた小説、『舞姫』で当時の読者を驚かせました。
彼は、陸軍軍医総監(軍医のトップ)、慶應義塾大学文学科顧問、東京国立博物館総長など、
数々な肩書きを持つエリートで、明治を代表する知識人でした。
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【抽出】
森鴎外『雁』弐の冒頭の無縁坂
そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍々(ぎぎ)たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸(こけむ)した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜が覗いていた。
この文章は『雁』の弐の冒頭部分です。ここに出てくる無縁坂と言う言葉が、物語の最後に、その意味を教えて呉れるのでした。
下宿屋「上条」の隣の部屋に住んでいた岡田は、卒業を控えた学生で、体格の良い美男で、競漕(ボートレース)の選手です。
岡田は夕食後の散歩を日課にしており、その道筋にある「無縁坂」でお玉と顔を合わせるようになります。
お玉は、婿入りの予定だった巡査に、妻子があることが分かり、井戸に身を投げようとした、自殺未遂の過去がある女でした。
そのお玉を身請けした末造は、もとは大学医学部の寄宿舎に勤める小使でしたが、
学生相手に金を貸し始め、高利貸しで儲けるようになります。
物語は岡田とお玉の二人が「無縁坂」で出会いますが、親しく接触することはありませんでした。
間も無くして、岡田は海外に旅立ち、お玉の恋は叶わず終ったのです。
小説のタイトルに使われる「雁」が作中で登場するのは、終盤に1度だけです。
岡田は雁を助けようとしたのに、逆に投げた石で、雁を殺してしまう事になります。
そして読者に気を揉ませていた、岡田とお玉の二人には何事も起こらず、何の関係も生まれませんでした。
正に「無縁」の状態のまま物語は終わり、弐の冒頭部分の「無縁坂」のくだりが、この物語の終焉を暗示していたのでした。
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【抽出】
明治の文豪・森鴎外『雁』無縁坂が暗示する物語の結末。
島崎藤村『夜明け前』の冒頭部分。
島崎藤村の『夜明け前』は、こんな冒頭から始まります。
「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。」
『夜明け前』は、長野県松本市の地方病院を舞台にした、医局小説『神様のカルテ』で、主人公が好きな小説として登場します。
それは主人公の栗原一止が暮らすアパート「御嶽荘」を、
住民の学士殿が去る前夜に、住民の仲間たちと酒を飲み交わしながら『夜明け前』の冒頭を朗誦していました。
そして、「明けない夜はない。止まない雨はない。そういうことなのだ、学士殿」と、栗原一止が語り、
学士殿を励まし、餞別として島崎藤村の『夜明け前』を、手渡したのです。
【関連】
シェイクスピア『お気に召すまま』木下順二訳
「オリヴァの家の果樹園 <第一幕第一場>
オーランドーとアダム登場
オーランドー おれの覚えているとこではだな、アダム、こういうことさ。
おやじの遺言でおれに譲られた金は僅か千クラウンだが、お前もいうように、おやじは兄貴に祝福を与えておれを立派に育てるように命じた。
ここから始まるんだな、おれの憂鬱は。二番目の兄貴のジェイクスは大学へ通わせていて、噂では成績もすばらしいそうだ。
ところがおれのほうは、田舎者のまんま家で育てられてる、いや、もっと正確にいえば、家に閉じ込められたまま育てて貰えないのだ。
全体これがおれのような生まれの紳士に対する育て方だと思うかい?
〈2幕第7場に登場するジェイクィズの言葉〉
『お気に召すまま』は、『から騒ぎ』や『十二夜』と同様に、シェイクスピアの円熟期である、1599年頃に書かれた喜劇です。
『お気に召すまま』には、人生を達観するような、ウィットに富んだ警句がたくさん登場します。その一つがこの言葉です。
「全世界は一つの舞台だ。そしてすべての人間は男も女も役者にすぎない。
めいめい出があり、引っ込みがある。しかも一人が一生に沢山の役を務め、その全幕は七つの時代から成る。」
『お気に召すまま』の中でも、最もよく知られたセリフで、
日本では「この世は舞台、人はみな役者」と言う、簡略版の名言の方が、よく知られているかもしれません。
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【抽出】
アルベール・カミュ『異邦人』
「きょう、ママンが死んだ。 もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム。マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。」
これはアルベール・カミュ『異邦人』の冒頭部分の一節です。
1942年刊のこの小説は、人間社会に存在する不条理について書かれていて、カミュの代表作の一つとして数えられています。
1957年に、カミュが43歳でノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われています。
『異邦人』は、アルジェリアに暮らす青年ムルソーが、友人のトラブルに巻き込まれ、刀を振り出した男を、銃であやめてしまいますが、
裁判ではその少しの前に、母の葬式で涙を流さず、翌日に女と遊んでいたことなど心証が悪く、
計画的犯罪を企てた、凶悪な人間として裁かれます。
裁判官から殺害の動機を聞かれた事に対して、
「太陽が眩しかったから」と証言したのです。そして判決が下され、極刑を言い渡されました。
ムルソーは、死刑の際に人々から罵声を浴びせられることを、人生最後の希望にしたのです。
アルジェリアに照りつける太陽と、ムルソーの心の薄暗さのコントラストに『異邦人』の奥深さがあるようです。
太陽が眩しかったから殺害したと言う、常識では考えられない理由。「太陽のせい」とは、いったい何だったのでしょうか?
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【抽出】
アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』
「かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮べ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
はじめの四十日はひとりの少年がついていた。
しかし一匹も釣れない日が四十日もつづくと、少年の両親は、もう老人がすっかりサラオになってしまったのだといった。
サラオとはスペイン語で最悪の事態を意味することばだ。」
ノーベル文学賞受賞作家のアーネスト・ヘミングウェイ。
彼の代表作である『老人と海』は、自然と戦う人間の姿を描いた名作として知られています。
物語の舞台はキューバ・コヒマル。
ここに住む漁師のサンチャゴ老人は、腕のいい漁師でしたが、84日間も不漁が続いて、漁師仲間からは馬鹿にされていました。
もう一人の登場人物は、マノーリンという少年で、それまで、サンチャゴと共に漁をしていましたが、
サンチャゴが不漁続きになったので、両親から別の船に行くように命じられます。
そんな中、サンチャゴは今日こそは大きな獲物を捕まえてみせると、早朝の海に、一人で漁に出ると、
18フィート(約5.5メートル)もあるカジキと出会いました。
カジキは釣り糸につながり、船を引っぱっていきます。なんとしてもしとめたいサンチャゴは、3日の間死闘をくり広げます。
そして、最後にはカジキにとどめをさすことが出来ましたが、
港に帰る途中、カジキはある出来事によって、無残にも骨だけとなり、彼は港に戻って来たのです。
『老人と海』では、「サラオ」(最悪の状態)と言う言葉が、物語の冒頭に出て来て、とても印象的に語りかけます。
この作品は人気が高く、新潮文庫の発行部数ベスト5では、
1位。夏目漱石『こころ』 2位。太宰治『人間失格』 3位。アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』 4位。夏目漱石『坊ちゃん』 5位。アルベール・カミュ『異邦人』 となっています。
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【関連】
ヘミングウェイ『移動祝祭日』の言葉。
61歳絶筆のパリを愛する言葉。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たら、その後の人生を、どこで過ごそうとも、パリはついてくる、パリは移動祝祭日だからだ!」
この言葉は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』に出て来る言葉です。
この本はヘミングウェイの没後、1964年に刊行されました。
1920年代の、1921年~1926年の、パリ修業時代を送った思い出を、61歳の絶筆で書き表したののが『移動祝祭日』なのです。
『移動祝祭日』と言う小説のタイトルは、彼の没後に、ヘミングウェイの親友だったホッチナーに、 彼が以前語っていたパリにちなんで付けた題名でした。
移動祝祭日 (新潮文庫 新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]
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【関連】
森本哲郎『僕の旅の手帖』のプロローグ。
パリを、ヘミングウェイが語っている。
昔の良きパリの情景を書いた、好きな文章があります。
それは、作家、森本哲郎さんの『僕の旅の手帖』のプロローグの冒頭に出てきます。
「それは、あたたかく、清潔で、親しみのある気持ちいいカフェだった」とヘミングウェイは書いている。
彼は、そのカフェに入ると、コート掛けに古いレインコートをつるし、帽子掛けに、くたびれて色のさめたフェルト帽をかけ、さて、一隅に席を占めてカフェ・オ・レを注文した。
そして、ギャルソンがそれを運んでくると、ポケットからノートを取り出し、鉛筆で小説の草稿をかきはじめる。
彼がすわっているのは、パリ、『サン・ミシェル広場のいいカフェ』である。
時代は1920年代。とつぜん、美しい女が雨に濡れて入ってくる。
彼女は入口近くにすわり、だれかをじっと待っている。 ヘミングウェイはそれをそっとながめる。そしてノートに書きつける。
「美しいひとよ。私はあなたに出会った。あなたは、いま、私のものだ。
あなたがだれを待っているにせよ、 また、私が、もう二度とあなたに会えないにしても、あなたは私のものだ。パリも私のものだ」
フランスの、良き時代を表した文章です。
これは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』の冒頭に出て来る一節の描写を、
森本哲郎さんならではの切り口で、切り取り、森本哲郎さんの世界観にあわせた、珠玉の文章になっているのです。
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【関連】
『枕草子』の冒頭部分。
「春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。
まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。」
枕草子冒頭の中でも、あまりにも有名な部分です。高校の古文の授業で習って、暗記されている方も多いと思います。
若い頃の脳は凄い暗記力です。社会人になってからは、読んだ本の暗記など、叶う筈もありません。
『枕草子』は西暦1001年(長保1年)頃に草稿本ができたいわれる随筆で、方丈記・徒然草と共に、日本の三大随筆とされています。
作者の清少納言は学者・歌人の家系に生まれています。生没年時は不明で、966年(康保3年)頃に生まれ1025年(万寿2年)頃没したという説があります。
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吉田兼好『徒然草』の冒頭
つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
現代語訳(口語訳)
することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ。
「徒然草」は序段を含めて、244段にもなる随筆です。
その文体は、和漢混淆文という現在の日本語の表記体系の元となる文体と、仮名文字が中心の和文が混在しています。
序段には「徒然なるままに」と述べ、
その後の各段では、吉田兼好の思索や雑感、逸話を、長短さまざまな趣で、順不同に語っています。
しかし、執筆後約100年間は、なかなか注目されることがなく、同時代の史料に「徒然草」への言及は、伝わりませんでしたが、
室町時代中期に僧・正徹が、注歌師たちに波及したことで、
応仁の乱の時代を生きた人たちには「無常観の文学」という観点から共感を呼んだようです。
なので冒頭の「徒然なるままに…」とは、「手持ち無沙汰で、退屈であるのに任せて」と言った意味になるようです。
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兼好法師の『徒然草』72段の一節。
ある時、高校の古文の授業で、兼好法師の『徒然草』72段を学習した時です。
そこは「賤しげなる物」の段で、こんな一節があったのです。
「下品に見える物は、調度品の多さ、硯に筆の多さ、持仏堂の多さ、庭の石や草木の多さ、家のなかの子・子孫の多さ、
人に会った時の言葉の多さ、善行を行う方法の多さ、多くても見苦しからぬは、文庫の文、塵塚の塵」
「多くても見苦しくない物は、室内で書籍を運搬する、文車に積んだ書籍と、塵捨て場の塵」となるようです。
何で兼好法師がゴミが見苦しく無いと、言ったかは分かりませんでしたが、
本はいくら多く集めても良いんだと、自分なりに解釈してしまったのです。
それからと言うと、毎日のように本を買い続けて、朝から晩まで、授業中も読んでいたのです。
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【関連】
『平家物語』第一巻「祇園精舎」の冒頭。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
どんなに栄華を極めたとしても、物事には必ず終わりが来ると言う、この世の無常を説いた言葉です。
『平家物語』はもともと、中世から近世にかけて琵琶法師によって語られたものでした。
琵琶法師たちは、平家と源氏の、熾烈な争いで失われた武士たちの鎮魂のため、
全国を旅しながら物語を語り継いでいました。そんな口承で伝わっていた背景があるのです。
美しき鐘の声 平家物語(一) ~諸行無常の響きあり~ [ 木村 耕一 ]
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志賀直哉『城の崎にて』衝撃的な冒頭。
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」
志賀直哉の私小説『城の崎にて』は、こんな衝撃的な冒頭から始まります。
九死に一生を得るも、背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないと医者に言われ、主人公は城崎温泉に向かいます。
電車の事故は、実際に志賀直哉自身が遭ったそうで、まさしく、この主人公は志賀直哉自身だったのです。
主人公は逗留した城崎温泉で、三つの死に遭遇します。それは、蜂、鼠、いもりの三匹の死でした。
その中でもいもりの死は、いもりを驚かせようと投げた石が、偶然にもいもりに当たり、絶命してしまったのでした。
それは可哀想と思う反面、生き物の虚しさを感じます。
いもりは偶然にも死んでしまったが、自分は電車事故に遭っても偶然にも生き残った。
そのことに感謝しなければならないと思っていたが、実際には喜びの感情は浮かび上がって来ませんでした。
生きていることと、死んでしまったことは両極ではなく、それ程、差がないように思えていたのです。
そして三週間、主人公は城崎温泉の宿を発ったのでした。
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫 新潮文庫) [ 志賀直哉 ]
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【抽出】
川端康成『雪国』の冒頭部分。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。」
この冒頭は、有名すぎるほど有名ですが、みなさん間違って覚えていませんか?
「長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。」だと思っていませんか?「雪国であった。」が正解なんです。
そして、そもそも、トンネルを抜けた先にある雪国ってどこなんだろう? と思ったことありませんか?
『雪国』の舞台は、新潟県の南魚沼郡にある、湯沢温泉がモデルになっています。
この小説では、列車に乗車しているので、トンネルは清水トンネルですが、
今では、関越道の谷川岳PA⇒湯沢IC間の関越トンネルが、北陸方面への、代表的なトンネルになっています。
トンネルに入る前と後では窓の外の世界が一変します。
関東方面から向かうと、急峻な谷川岳を貫き出た先にあるのは、魚沼産コシヒカリで有名な田園地帯で、冬は白の世界です。
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【抽出】
三島由紀夫『金閣寺』冒頭。
「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽(しらく)である。
懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
成生岬(なりうみさき)の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下(しっか)を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学校へ徒歩で通った。
父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。」
そして主人公は、叔父の家の二階の勉強部屋から見る、小山の若葉の山腹が、西日を受けているのを見ると、
金屏風を建てたように見え、金閣を想像したのです。
『金閣寺』は作家・三島由紀夫による小説で、昭和31年(1956年)に雑誌『新潮』で連載され、
その後、単行本として出版されました。
京都・鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿「金閣」を、学僧が葛藤の末に放火すると言う、ショッキングなストーリーです。
これは、昭和25年(1950年)7月2日に、実際に起きた事件が題材になっていて、三島由紀夫の代表作とも呼ばれています。
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【抽出】
井伏鱒二の『山椒魚』冒頭。
山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、
頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。
今は最早、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。
強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、
それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなったが、彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
「何たる失策であることか!」彼は岩屋のなかを許されるかぎり広く泳ぎまわってみようとした。
人々は思いぞ屈せし場合、部屋のなかを隅々こんな工合に歩きまわるものである。
けれど山椒魚の棲家は、泳ぎまわるべくあまりにも広くなかった。
『山椒魚』(さんしょううお)は、井伏鱒二の短編小説で、
成長しすぎて自分の棲家である岩屋から出られなくなってしまった、山椒魚の悲嘆をユーモラスに描いた作品です。
井伏鱒二は釣り好きで知られていて、筆名の鱒二は川魚の名前が由来です。そして、釣りに関しての著書も多数執筆しています。
『川釣り』岩波新書 1951年、岩波文庫 1990年。 『釣師・釣場』新潮社 1960年 のち文庫(改版)、講談社文芸文庫 2013年。 『釣人』新潮社 1970年。
『川釣り』は、1952年(昭和27年)に岩波新書から刊行されました。
内容は戦後に書いた釣りに関する、随筆や感想や紀行文などを書いたものです。
主な釣りの舞台として鮎釣りでは、伊豆の河津川、相模川、笛吹川など、
ヤマメ釣りでは狩野川、富士川の支流の釜無川や、下部川が釣り場となっていて、釣り好きにはたまらない作品です。
山椒魚/遙拝隊長改版 他七篇 (岩波文庫) [ 井伏鱒二 ]
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【関連】
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の冒頭。
一 午後の授業
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。
『銀河鉄道の夜』は、こんな一節から始まります。
銀河鉄道の旅は、銀河に沿って北十字から始まり、南十字で終わる、主人公ジョバンニ少年の異次元の旅です。
『銀河鉄道の夜』は、詩人で童話作家の宮沢賢治の作品の中でも、もっとも有名な代表作の一つで、
彼が初稿を書いたのが1924年で、晩年まで推敲が行われていました。
現在流布しているストーリーは、戦後しばらくして発見された、第4次稿と呼ばれる作品です。
しかし、宮沢賢治は1933年に37歳の若さで亡くなります。
そのためこの作品は、宮沢賢治の生前には出版されることはなく、賢治の死後発表されたのです。
彼の業績は、生前はほとんど評価はされず、没後、遺稿の出版が相次ぎ急速に知名度を高め、
その業績が評価されたのは、彼の死後だったのです。
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【抽出】
沢木耕太郎の『深夜特急』の冒頭。
「ある朝、目を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。」
沢木耕太郎さんの『深夜特急』の冒頭で、今すぐ行動を起こさなければならないと言う、強い意志が表明されています。
『深夜特急』は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、
1970年代にインドのデリーからロンドンまでを、乗り合いバスで旅したことを描いた紀行文です。
「かつてシルクロードがあったのならば、現代ならバスぐらい通っているだろう」と考えて、詳細な計画は立てずに、
勢いで日本を飛び出した26歳の主人公「私」の物語は、沢木耕太郎さん自身の旅行体験に基づいた紀行文で、
今でも「バックパッカーのバイブル」と称されていて、多くの旅人たちに影響を与えて来ました。
沢木耕太郎さんの独特の乾いた文章で綴られる本書は、余計な感情の記述がなく、淡々と語られているにもかかわらず、
その土地の空気や、湿気や臭いと言うものまでもを感じさせて呉れます。
そして、中盤ではこんな一節で旅を総括しています。
「旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。」
深夜特急1 香港・マカオ (新潮文庫) [ 沢木 耕太郎 ]
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【抽出】
村上春樹『ノルウェイの森』の冒頭。
多くの祭りのために
第一章
僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。
その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。
十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、
BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。
それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。
そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。
いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
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この本の題名が気になりませんか?この本は、「雨の中の庭」というタイトルで、書き始められました。
このタイトルはドビュッシーのピアノ曲集『版画』の中の一曲「雨の庭」(Jardins sous la pluie)に由来したのです。
しかし、タイトルは原稿を版元に渡す2日前に変更されました。
題名に迷った村上さんが奥さまに作品を読んで貰い意見を求めると、「ノルウェイの森でいいんじゃない?」という返答があったと言うのです。
ビートルズの曲の題を、そのまま本の題にするということで、ご本人は当初気が進まなかったと言いますが、
周りの「題はもう『ノルウェイの森』しかない」という意見が大勢だったため、今のタイトルとなったようです。
そして、この題名を見ると、ビートルズの『ノルウェイの森』が、聴こえてくるのです。
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村上春樹『羊をめぐる冒険』
水曜の午後のピクニック
新聞で偶然彼女の死を知った友人が電話で僕にそれを教えてくれた。彼は電話口で朝刊の一段記事をゆっくりと読み上げた。平凡な記事だ。大学を出たばかりの駆け出し記者が練習のために書かされたような文章だった。
こんな冒頭の一節から『羊をめぐる冒険』は始まります。
ある日29歳の「僕」はベッドの中のガールフレンドから、10分後に「羊」のことで電話がかかって来ると言われます。
そのガールフレンドは、妻の浮気が原因で、妻との離婚後に付き合い出した21歳の「耳のモデル」の女の子でした。
ガールフレンドの言葉通り、大学時代の友人である、広告代理店の共同経営者の相棒から、電話で会社へ呼び出されます。
相棒の話しでは「僕」が広告に掲載した羊の写真がトラブルになり、相棒の元に右翼の大物の秘書が現れたと言うのです。
その羊の写真は、親友の「鼠」から送られ、世に公開するよう依頼された写真の羊でした。
こうして「僕」は「星形の斑紋のある羊」を探すために、半ば強制的に北海道へと、出掛けたのです。
『羊をめぐる冒険』は、初期の「鼠三部作」の完結編となっいる作品です。
三部作と言うのは、村上春樹さんのデビュー作である『風の歌を聴け』(1979.7)、
『1973年のピンボール』(1980.6)、そして『羊をめぐる冒険』(1982.10)の三作品を総称しています。
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村上春樹『海辺のカフカ』
カラスと呼ばれる少年
「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。わかった?」
物語の11ページ目に、「カラスと呼ばれる少年」のこんな言葉が出てきます。
主人公の田辺カフカが、世界でいちばんタフな15歳になろうと決意し、
誕生日に家を出て、四国の松山の知らない街に行き、由緒ある小さな私設の甲村図書館の片隅で暮らすようになります。
家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけではなく、古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真などでした。
そして、その図書館で館長をしている佐伯さんが、
19歳の時に詩を書き、それにメロディーをつけ、ピアノで弾いて歌った曲がありました。
そのメロディーはメランコリックで無垢で、美しいものだった。
それをレコーディングするとそのレコードは発売され、劇的にヒットしたのです。
その曲のタイトルが『海辺のカフカ』でした。
更に、図書館の一室に飾られていた1枚の絵を、佐伯さんから託されます。その絵のタイトルも「海辺のカフカ」だったのです。
海辺のカフカ(上巻) (新潮文庫 新潮文庫) [ 村上 春樹 ]
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芥川龍之介の『羅生門』冒頭。
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所所丹塗(にぬり)の剥げた、大きな円柱(えんばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。
羅生門が、朱雀(すざく)大路(おおじ)にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女(いちめ)笠(がさ)や揉(もみ)烏帽子(えぼし)が、もう二三人はありそうなものである。
『羅生門』には、元になった物語がありました。それは平安時代の末期に作られた『今昔物語集』と言う説話集の中の物語です。
『羅生門』の、主な登場人物は、主人に暇を出された下人と、盗みを働く老婆の2人です。
そして、物語の舞台は平安時代の京都にあった羅生門で、朱雀大路の南端にあった大門でした。
ある日の暮れ方、主人から暇を出されて、途方にくれる下人が、荒廃した羅生門の下で雨やみを待っていました。
彼が門の楼上に登ると、女の死体の髪を抜く老婆がいました。
憎悪を抱き、力で老婆を押さえつけた下人でしたが、老婆から生きる為の悪事を正当化する言葉を聞くと、
下人の心に、悪を肯定する勇気が湧き「自分もそうしなければ餓死する体なのだ」と言い、
老婆の衣服を剥ぎ取って、夜の中に駆け去ってしまうのです。
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文豪とアルケミスト 朗読CD 第十三弾 「芥川龍之介」 [ 諏訪部順一 ]
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【抽出】
芥川龍之介『蜘蛛の糸』の冒頭
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございましょう。
ある日の朝、お釈迦さまは極楽の、蓮池のほとりを散歩していました。はるか下には地獄があり、犍陀多(かんだた)と言う男が、血の池で、もがいているのが見えます。
犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒。しかしそんな彼でも、一度だけ良いことをしていたのです。
道端の小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやった事でした。
そのことを思い出したお釈迦さまは、彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らします。
血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸が、するすると垂れて来ました。
これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで、一生懸命に上へ上へと登るのでした。
地獄と極楽との間には、とてつもない距離があるため、登ることに疲れた犍陀多は、糸の途中にぶらさがって休憩します。
しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり、蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいて来るではありませんか。
このままでは、重みに耐えきれずに、蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだのです。
すると突然、蜘蛛の糸は、犍陀多がいる部分で、ぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちと一緒に、暗闇へと、まっさかさまに落ちていったのです。
一部始終を、上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去りました。時刻は昼になろうとしていたのです。
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芥川龍之介『鼻』
禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇(うわくちびる)の上から顋(あご)の下まで下っている。
形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰(ちょうづめ)のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
芥川龍之介が、大正5年に執筆したこの作品は、
鎌倉時代前期(建暦2年(1212年)~承久3年(1221年))成立と推定される、日本の説話物語集の、
『宇治拾遺物語』巻第二「鼻長き僧の事」を、元にした短編小説で、文豪夏目漱石はこの小説を読んで、絶賛したのだそうです。
主人公は、五六寸もある、自らの長い鼻を気に病む、僧侶の禅智内供(ぜんちないぐ)です。
一寸は約3㎝ですので、15㎝~18㎝の巨大な鼻の持ち主です。
その垂れた鼻のため食事をするにも、一苦労な状態です。
50歳を超えた彼は、自分自身が鼻を気にしていると言う事を、
人に知られるのが嫌で、日常の談話の中で、鼻と言う語が出て来るのを、何よりも恐れていました。
そんなある日、彼はこの鼻を短くすることに成功しますが、
予想に反して、周囲の人々は以前よりも、露骨に笑うようになったのです。
この物語で芥川龍之介は、人間の他人の不幸や、幸福に対する振る舞いについて、問いかけています。
芥川龍之介4 鼻 (大活字本シリーズ 4) [ 芥川龍之介 ]
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城山三郎『粗にして野だが卑ではない』
一 若き兵士の如く 総理大臣池田勇人は、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていた。
だが、総裁に成る身にとっては――。 「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と、小林一三が初代総裁のポストをはねつけたのは、有名な話である。
従業員数四十六万。その数だけでも統率力の限界を超えている上、政府の指揮監督、国会の監督と手枷(てかせ)足(あし . . .
城山三郎作品は社会人となり、入社したての頃、滅茶苦茶読んでいた作家です。
社会とこういうもんだよ。頑張れば、チャンスはあるかもしれないと、思わせるような言葉に、力を貰った気がしていました。
『輸出』で文学界新人賞を、『総会屋錦城』で直木賞を受賞し、経済小説の開拓者となります。
吉川英治文学賞、毎日出版文化賞を受賞した『落日燃ゆ』の他に、『男子の本懐』『官僚たちの夏』
『秀吉と武吉』『もう、きみには頼まない』『指揮官たちの特攻』等、多彩な作品群は幅広い読者を掴んでいます。
「粗にして野だが卑ではない」 石田禮助の生涯【電子書籍】[ 城山三郎 ]
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太宰 治『斜陽』の冒頭部分
「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」と幽かすかな叫び声をお挙げになった。」
これは太宰 治の『斜陽』の冒頭部分の一節です。
母親のスープの飲み方の所作が、美しい文章で綴られ、
この一文だけで貴族の雰囲気を醸し出す、印象的な冒頭のシーンとなっています。
日本の敗戦後から2年目の、1947年に刊行されたこの小説は、当時1冊70円で、1万部超えのベストセラーとなりました。
没落していく華族を描いた太宰治の代表作で、それまで社会制度や価値観が崩れ、「斜陽」としてゆく貴族の物語で、
これを指す「斜陽族」という意味の言葉を生みだしました。
そして、太宰治の生家である記念館は、本書の名をとって「斜陽館」と名付けられています。
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太宰治の『人間失格』
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、
(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)
庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
太宰治と言うと、写真家・林忠彦が撮影した『太宰 治 酒場ルパンで、銀座』1946年 が有名ですよね。
ポケットに新聞を無造作に突っ込み、兵隊靴を履いた足でスツールにあぐらをかく、
リラックスした太宰を写した一枚で、とてもよく知られた、太宰治のポートレート写真ですが、
これは、作家・織田作之助を追って銀座のバー「ルパン」を訪れた写真家の林忠彦が、
織田と同席していた太宰に「俺も撮れよ」と声を掛けられます。
1個だけ残っていたフラッシュバルブを使い、ワイドレンズがなく引きもない場所だったので、
トイレのドアをあけ、便器にまたがりながら撮影したというこの作品は、太宰治を象徴する一枚となりました。
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【関連】
太宰治の『走れメロス』
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。
メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此(こ)のシラクスの市にやって来た。
メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿(はなむこ)として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。
メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
羊飼いのメロスは純朴で正義感の強い青年でしたが、王様が人間不信に陥ったため、人々を虐殺しているという事実を聞き、激怒します。
邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を暗殺しようと決意した彼は、短剣を携えて城へ侵入しますがすぐに捕まります。
その結果、死刑が確定したメロスは、妹のもとに帰って結婚式を挙げてやるために、3日後の日没まで猶予をくれと頼みます。
そして、セリヌンティウスという親友を、人質として王の前に差し出しました。
人間不信の王は、メロスが親友を裏切って、逃げるのもまた見ものだと思い、これを承諾したのです。
メロスは一睡もせず走って家に戻り、妹の結婚式を挙げ、そして死刑場に舞い戻りますが、体力の限界で動けなくなります。
一度は諦めかけたメロスですが、それでも自分を信じて待っている親友のもとへ走り始めます。
血を吐いてボロボロになりながらも、彼は日没直前の瞬間、処刑台の前へと滑り込んだのです。
親友のセリヌンティウスは、一度だけメロスを疑ったことを白状し、メロスもまた一度だけ友を裏切りかけたことを白状します。
2人は一度ずつ互いの頬を殴り、そして熱い抱擁を交わすと、この美しい友情を見た王はメロスを無罪にし、さらには「自分も仲間に入れてくれ」と懇願したのです。
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太宰治全集(全10冊セット) (ちくま文庫) [ 太宰治 ]
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【関連】
太宰治『富嶽百景』
「富士には、月見草がよく似合ふ」
「富士の頂角、広重(ひろしげ)の富士は八十五度、文晁(ぶんてう)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。
広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢(きやしや)である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。
けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」
『富嶽百景』は、太宰治の自己破壊などの、暗いイメージとは異なり、明るく、前向きな雰囲気が漂う作品です。
太宰治が甲州へ向かった時のことが題材となっており、
その土地の人との交流や、富士山に関するエピソードが、ベースとなっています。
作家の「私」は、甲州へ向かって、井伏鱒二(いぶせますじ)が滞在する茶屋で、過ごすことになりました。
そこは、富士山が一望できる茶屋でした。
この小説には、10余りの富士がでてきます。
しかし、単に山としての富士を描写した文章はひとつもなく、富士を書いているようで、実はすべて心境を描いています。
その富士は、一例ですが、こんな風に登場します。
「十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。」
「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。」
そして、月見草へと進みます。
「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」
あまりにも、この言葉が有名すぎていますが、この場面は、
作家の「私」が、峠の茶屋へ戻るバスの車中で、
女車掌が「今日は富士がよく見えますね」と言うと、乗客たちは一斉に富士山を眺めますが、
60歳くらいの老婆が、路傍の一ヵ所を指さし、「おや、月見草」と声にします。
しかし、バスは素早く通過して行く、そんな一瞬の出来事を切り取り、その光景を名文にしていたのです。
富嶽百景/走れメロス改版 他八篇 (岩波文庫) [ 太宰治 ]
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【関連】
永井荷風の『濹東綺譚』
わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町(にしきちょう)にあった貸席錦(きん)輝(き)館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。
活動写真という言葉のできたのも恐らくはこの時分からであろう。
それから四十余年を過ぎた今日では、活動という語(ことば)は既にすたれて他のものに代(かえ)られているらしいが、初めて耳に . .
『濹東綺譚』と言えば、木村荘八の35点の挿絵が、永井荷風の文章と相まって、独特の世界観を醸し出しています。
文庫本にもその絵は挿入されていて、挿絵を見るだけでも価値のある本だと思います。
この挿絵は、現在、東京国立近代美術館の所蔵となっているそうです。
永井荷風は、森鴎外と上田敏の推薦で、慶応義塾大学文学部の主任教授となります。
教育者としての荷風は、ハイカラーにボヘミアンネクタイと言う、洒脱な服装で講義に臨み、
講義の内容は仏語、仏文学評論が主なものでした。
華やかな教授職の一方で、芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返したのです。
永井荷風は大正6〔1917〕年9月16日(当時37歳)から、死の前日の、昭和34〔1959〕年4月29日(当時79歳)まで、
42年間にわたって『断腸亭日乗』を書き続けたことで有名です。
「断腸亭」とは荷風の別号、「日乗」とは日記のことで、自らの老いの心境を読み込みんでいるのです。
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梶井基次郎『檸檬』
えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか──酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。
『檸檬』の冒頭部分です。
得体の知れない不吉な塊に心を押さえつけられていた主人公。それは持病の肺のせいでも、借金のせいでもない何かでした。
好きな詩も音楽の力を持ってしても、楽しい心を取り戻すことが出来ませんでした。
ある日の散歩で、お気に入りの果物屋の前を通り掛かった主人公は、鮮やかな檸檬を見つけ、1つ買い求めます。
檸檬の存在のおかげで、気分が少し浮き立った主人公は「丸善」に立ち寄ります。
以前は好きな店の1つでしたが、今は何を見ても、憂鬱になってしまう場所になっていました。
この小説の核になるのが、「得体の知れない不吉な塊」です。
それがいったい何のことであるのか、作品の中には書かれていません。
そして、主人公はあることを思いつき、結末で檸檬を爆弾に見立てて丸善に仕掛けたのです。
梶井基次郎は、明治34年生まれ、昭和の初めまで活躍した文豪ですが、文豪というイメージがないのは、
彼が31歳という若さで早逝したためでしょう。
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司馬遼太郎『竜馬がゆく』の名言。
「その前に、黒船というやつに乗って動かしてみたい」
「ペリーというアメリカの豪傑がうらやましいよ。たった四隻の軍艦をひきいて、日本中をふるえあがらせているんだからなあ」
第1巻
坂本竜馬は、土佐藩高知城下の下級武士の次男として生まれた。そして19歳の春、竜馬は剣術修行のため、江戸へと旅立ちます。
竜馬は江戸の下屋敷に到着すると、その後千葉道場の桶町道場にに入門し、ここで千葉重太郎らから、家族同様可愛がられます。
この直後、黒船来と言うことで各藩は大騒ぎになり、竜馬は土佐品川藩邸に向かいます。
この藩邸は、現在の京浜急行「立会川駅」付近にありました。
そして竜馬は、この品川から浦賀まで行ったのです。
この黒船が襲来したと言う出来事で、日本は一気に明治維新に向けて、時代が大きく変わって行くことになります。
司馬遼太郎の書いた『竜馬がゆく』は、坂本龍馬像を決定的なものにしました。
現在、坂本龍馬を語る上で、この本の影響を受けなかったと言うのは、皆無でしょうし、
坂本龍馬好きの方は、何らかの影響を受けている筈です。
竜馬がゆく 1 新装版/司馬遼太郎【3000円以上送料無料】
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【関連】
司馬遼太郎『坂の上の雲』
まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
これは、『坂の上の雲』の冒頭部分です。
明治維新を成功させ、近代国家として生まれ変わった極東の小国・日本が、正に、新しい時代を向かえようとしていました。
時に世界は帝国主義の嵐が吹き荒れ、極東の端に位置する日本も、西洋列強の脅威から、無縁ではありませんでした。
しかし逆境の中にありながら、この誕生したばかりの小国・日本には、亡国の悲愴さを吹き払う壮気があったのです。
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた兄・秋山好古。
東郷平八郎の参謀として、作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った弟の秋山真之。
そして、真之の親友で文芸の道に入り、俳句・短歌といった伝統文芸の近代化を目指さしながらも、
病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。
旧伊予国松山出身のこの三人の若者も、大いなる気概を抱いて、世に出ようとしていました。
この三人を中心に、近代国家に仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、
その明治と言う時代を生きた、男たちの生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説です。
2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映されましたので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
タイトルの『坂の上の雲』とは、坂の上の天に輝く一朶の雲を目指して、一心に歩む、当時の時代的昂揚感を表したものです。
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コナン・ドイル『緋色の研究』
「第一部 元軍医局 ジョン H. ワトソン医学博士の回顧録の復刻」
1878年にロンドン大学で医学博士の学位をとつた私は、軍医としての必須科目をおさめるため、引きつづきネットリの陸軍病院へと進んだ。
そしてそこで修業を卒えてから、順当に第五ノーザンバランド・フジリーヤ連隊附の軍医補に任命されたのである。
当時連隊はインドに駐在中であつたが、私の赴任前にかの第二次アフガン戦争が勃発してしまった。
ボンベイに上陸してみると、わが連隊はすでに山地を前進して敵地ふかく入つていると聞かされたが、自分とおなじ立場におかれた多くの士官たちとともにその後を追つて、
カンダハールまで辿りついてみたら、そこにわが連隊がいたので、直ちに新しい軍務に服したのである。
戦役は多くの人に叙勲やら昇進をもたらしたけれど、私にとつては徹頭徹尾災難だけであつた。
私は命ぜられてバークシャ連隊附に転じ、その隊の一員としてかのマイワンドの大苦戦に参加した。
そのさいジェゼール銃弾に肩口をやられて、骨を破砕されたうえ、鎖骨下動脈も少しかすった。
〈『緋色の研究』コナン・ドイル 延原謙訳 新潮文庫から〉
この冒頭で、ワトソンは、バークシャ連隊附に転じ、その隊の一員としてかのマイワンドの大苦戦に参加し、
その際に、ジェゼール銃弾に肩口をやられて、骨を破砕されたうえ、鎖骨下動脈も少しかすったと、その体験を語っています。
そして、ジョン・H・ワトソンは、シャーロック・ホームズと初めて対面すると、
ホームズから、「見たところ、アフガニスタンに行ったことがありますね」と、初対面にも関わらず言い当てられたのです。
そして、その推理の連鎖はこう事だと語ります。
「医者っぽいタイプの紳士がいる。しかし軍人のような雰囲気がある。ということは、明らかに軍医だ。彼は熱帯から来たばかりだ。
彼の顔は黒い。しかしそれは彼の肌の自然の色合いではない。手首は色白のためだ。彼は苦難と病気を体験している。彼のやつれた顔が明白に語っている。
彼の左腕は傷ついている。彼はこわばった不自然な方法で固定している。
熱帯のどの場所が、ある英国軍医に、こんな苦難と腕の傷を与えうるか、明らかにアフガニスタンだ」と推理したのでした。
こうして、シャーロック・ホームズは、読者を推理の世界に誘うのでした。
緋色の研究改版 (新潮文庫) [ アーサー・コナン・ドイル ]
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【関連】
アガサ・クリスティー『スタイルズ荘の怪事件』
「ひところ世間を騒がせた〝スタイルズ荘事件″に対する関心は、最近ではいくぶん下火になった。
それでも、これほどのスキャンダルを引き起こしたからには、事件の全貌を記録しておくべきだということになって、友人のポアロならびに遺族の方々から、わたしに依頼があった。
事実を記すことで、いまだにささやかれている興味本位の噂も消えるはずだと思ったのだ。」
ポアロの相棒として登場するヘイスティングズは、傷病兵として前線から本国に送還され、
軍の保養所で数か月療養した後、1ヵ月の傷病休暇が与えられ、
イギリスに戻ったところ、偶然にも知人に会い、その知人の母親が住む、エセックス州にあるスタイルズ荘へ向かったのでした。
一方、エルキュール・ポワロは、第一次世界大戦中に、ドイツ軍の侵略により、イギリスに亡命していて、
エセックス州の富豪夫人の援助を受けて、スタイルズ荘の傍の、コテージで、生活を始めていたのでした。
そこで、以前ベルギーで知り合いだった友人の、アーサー・ヘイスティング大尉と再会し、『スタイルズ荘の怪事件』を解決するのでした。
その後は、ヘイスティング大尉と同居し、探偵として活躍し、数多くの難事件を解決します。
なので、『スタイルズ荘の怪事件』は、
ポワロとヘイスティングにとっては、出会いと共に、最初の難事件解決の、スタートとなる事件だったのです。
シャーロック・ホームズの相棒・ワトソンは元軍医で、アフガニスタンで肩を負傷し、
本国に帰還した所で、ホームズと出会い共同生活を始めました。これって似てますよね。
スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫) [ アガサ・クリスティ ]
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【抽出】
小川洋子『博士の愛した数式』
「彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。」
[ぼくの記憶は80分しかもたない]博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていました。
記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい”家政婦です。
博士は“初対面”の私に、靴のサイズや誕生日を尋ねます。それは、数字が博士の言葉だったからです。
やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は、驚きと歓びに満ちたものに変わってゆきます。
会話をするとき、博士はいつも数字を使いました。
数学と野球を通じて仲を深める三人でしたが、博士にとってそれは80分だけのものでした。
記憶できない博士との忘れられない思い出を刻む、哀しくも愛おしい話です。この小説は第1回本屋大賞を受賞しました。
博士の愛した数式 (新潮文庫 新潮文庫) [ 小川 洋子 ]
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【抽出】
住野よる『君の膵臓をたべたい』
クラスメイトであった山内桜良の葬儀は、生前の彼女にまるで似つかわしくない曇天の日にとり行われた。
『君の膵臓をたべたい』は、余命短いヒロインの葬式が行われたことから始まります。
クラスメートで唯一、主人公と価値観を共有する山内桜良の死を前にして、どんな物語が始まるのかと、読者を刺激します。
主人公の少年と、余命わずかな少女・山内桜良の日常を描き、読み終われば、このタイトルの素晴らしさに気づくでしょう。
高校二年の四月、高校生の志賀春樹は、盲腸の手術後の抜糸で病院を訪れ、
ロビーのソファに置かれた、一冊の文庫本を見つけます。
書店のカバーがかけられ、外すと本来あるはずのカバーはなく、太いマジックの手書きで『共病文庫』と書かれていました。
春樹がページをめくると、共病文庫は日記で、そこには膵臓の病気で数年内に死んでしまうこと、家族以外には内緒にしていることが書かれていました。
見てはいけないと本を閉じますが、声を掛けられ、振り向くと持ち主の桜良が立っていました。
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【抽出】
三浦しをん『舟を編む』
「右という言葉を説明できるかい」
この問いかけは国語学者で、辞書監修者の松本が、ある編集者に問い掛けた言葉です。
それを真似して編集責任者の荒木が、自身の後継者を探す中で、問いかけた言葉です。
三浦しをんさんの小説『舟を編む』は、2012年に本屋大賞を受賞した後、2013年には映画化され、その後アニメ化もされました。
それは「辞書の編纂」と言う、一見地味な仕事にスポットライトを当てた作品です。
玄武書房に務める荒木公平は、人生の大半を辞書に捧げて来ました。
定年間近になり、心残りなのは、国語学者で辞書監修者の松本と企画して来た、辞書『大渡海』(だいとかい)の事でした。
社内で人材を探す中で、営業部の馬締光也(まじめ)と言う社員を見出します。
彼の下宿先のアパートは、廊下まで本に埋め尽くされ、彼は大学院で言語学を専攻するほど、「言葉」に興味を抱いていた人物でした。
そんな彼の下宿先である早雲荘に、大家のタケの孫である林香具矢がやって来て、一つ屋根の下で暮らすことになります。
馬締は一目見て香具矢のことが好きになりますが、この気持ちをどう伝えていいのか分からず、悶々とします。
しかし言葉で告白出来ず手紙を渡すと、
「手紙じゃなくて、言葉で聞きたい。みっちゃんの口から聞きたい、今」と、言われてしまいますが、二人は結婚します。
『大渡海』の話が立ち上がってから十三年後と、時は経ち、ついに『大渡海』は完成しました。
しかしその時には、『大渡海』に心血を注いて来た、国語学者で辞書監修者の松本が、亡くなった後だったのです。
この物語には、辞書編纂に人生をかける人々が、それぞれが情熱を持って仕事に邁進する姿が描かれます。
そんな彼らの仕事ぶりに、辞書が持つ奥深さに、気付かされる作品です。
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「印象に残る小説の冒頭~読み返したい本の名文・一節・名言集」への5件のフィードバック
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